【要約】
「あなたの虚実の問いに哲学者がお答えします」
ネットの掲示板に主人公の「私」はこう書いた。
「私」はアイソレーションタンクでカウンセリングを行っている哲学者だ。外界からの感覚刺激を遮蔽した容器の中で、エプソムソルト水に浮かびながら、一日のほとんどを過ごしている。このタンク生活は、高血圧の「私」を案じて、前妻ベッタのかかりつけの医者に勧められたのがきっかけだった。耐えがたい睡眠発作も理由の一つかもしれない。ナルコレプシーという居眠り病のせいで、美術館の監視員のバイトはクビになり、大学は及第し、論文「残像の実在化」も未完成のままに終わってしまった。普段感じている光や音や重力から解放され、現実を断ち、睡眠と覚醒に揺れながら「私」は考える。最後に残るのは思考であり、イメージこそが現実であり、本当に在り続けるものは無なのだと。
タンク内には窓がある。ただし本物の窓ではない。奇術師ミミ・マートンに描いてもらった円形天窓の絵で、明かりを調節できるようになっている。ルネサンスの画家マンテーニャのだまし窓のような天窓は、「私」の知覚すべてを疑わせ、思惟する自分を強く意識させる。
生活の糧のために始めたカウンセリングだが、一人娘のアーヴァにはエセ哲学者のカウンセリングだと言われている。カウンセリングにやって来るクライアントは実にさまざまで、興味本位で来る人もいれば、観念論を展開する人もいたり、個人的なカタストロフィーについて相談したりする人もいる。
筋トレに励む暗所恐怖症の男、他の人には見えない"余計なもの"が見えてしまうという夫人、人類全体を一つの多細胞組織だという覗き見趣味のドッガー、「私」の残像の函数的世界観に共振する「メタ数学」と名乗る秘密結社コンパスの連続殺人犯、総ベージ数は32億にも及ぶ「私」の遺伝子地図を売りつけるセールスマン、ゼウスの加護を受けて樫の木になったフィレモンのように木化しつつある老人、貯金をはたいて宇宙旅行を体験した「宇宙飛行士」、メタ素材の服を着た美しい声の透明人間、「エデン」という刑務所から来た男、宇宙を纏った裸の少女、自己啓発を超えて不死を求めてスマートドラッグに溺れる少年。分子構造模型のような玩具の修繕を依頼する女の子を子どもテロリストと疑い、記憶喪失になった昔の恋人ヴェラを想う。シミュレーション世界「モドキ」こそが現実で、こちらの世界を「ヨソ」と呼ぶ娘アーヴァの動向は、「私」を不安にさせる。アーヴァは、センサーを埋め込んだ自分の脳の量子的なふるまいを、リアルタイムでブレインマシンに送信し、総合的な新人類の創造を目ざす「人類の庭」プロジェクトに参加している。
「私」の生きがいのタンク生活の終焉は、下の階からの苦情だった。アイソレーションタンクから漏れ出た塩水被害で、多額の損害賠償を請求されたのだ。タンクとの別れの朝、眠りから覚めた「私」の目に飛びこんできたのは、本物の窓から射し込む光だった。「私」を覗き込んでいるのは、もはやミミ・マートンの絵の人物たちではなく、「私」を訪ねたクライアント、娘アーヴァ、前妻ベッタ、亡き母、親族、そして、かつて愛した女性ヴェラだった。
夢、残像、耳鳴り、恋愛。それらはすべて主観的ではあるけれど、偽りではない。では、それらは何によってリアルとなり、何によって実在化するのか。そして、それらは定義できるのか。
レーナ・クルーンがその認識の限界を問う。
|