KIRJOJEN PUUTARHA
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Valeikkuna    原書名:  Valeikkuna
 (偽窓)
 作者名:  Leena Krohn, 1947~
 レーナ・クルーン
 出版社 / 年:  TEOS / 2009
 ページ数:  155
 ISBN:  978951851183
 分類:  小説
 備考:  Hotel Sapiens
 Auringon lapsia
 Kotini on Riioraa
 Mehiläispaviljonki. Kertomus parvista
 Unelmakuolema
 Sfinksi vai robotti
 Pereat mundus
 蜜蜂の館
 ペレート・ムンドゥス ― ある物語
 ウンブラ-パラドックス資料への一瞥
 タイナロン-もう一つの町からの便り

【要約】

「あなたの虚実の問いに哲学者がお答えします」

ネットの掲示板に主人公の「私」はこう書いた。

「私」はアイソレーションタンクでカウンセリングを行っている哲学者だ。外界からの感覚刺激を遮蔽した容器の中で、エプソムソルト水に浮かびながら、一日のほとんどを過ごしている。このタンク生活は、高血圧の「私」を案じて、前妻ベッタのかかりつけの医者に勧められたのがきっかけだった。耐えがたい睡眠発作も理由の一つかもしれない。ナルコレプシーという居眠り病のせいで、美術館の監視員のバイトはクビになり、大学は及第し、論文「残像の実在化」も未完成のままに終わってしまった。普段感じている光や音や重力から解放され、現実を断ち、睡眠と覚醒に揺れながら「私」は考える。最後に残るのは思考であり、イメージこそが現実であり、本当に在り続けるものは無なのだと。

タンク内には窓がある。ただし本物の窓ではない。奇術師ミミ・マートンに描いてもらった円形天窓の絵で、明かりを調節できるようになっている。ルネサンスの画家マンテーニャのだまし窓のような天窓は、「私」の知覚すべてを疑わせ、思惟する自分を強く意識させる。

生活の糧のために始めたカウンセリングだが、一人娘のアーヴァにはエセ哲学者のカウンセリングだと言われている。カウンセリングにやって来るクライアントは実にさまざまで、興味本位で来る人もいれば、観念論を展開する人もいたり、個人的なカタストロフィーについて相談したりする人もいる。

筋トレに励む暗所恐怖症の男、他の人には見えない"余計なもの"が見えてしまうという夫人、人類全体を一つの多細胞組織だという覗き見趣味のドッガー、「私」の残像の函数的世界観に共振する「メタ数学」と名乗る秘密結社コンパスの連続殺人犯、総ベージ数は32億にも及ぶ「私」の遺伝子地図を売りつけるセールスマン、ゼウスの加護を受けて樫の木になったフィレモンのように木化しつつある老人、貯金をはたいて宇宙旅行を体験した「宇宙飛行士」、メタ素材の服を着た美しい声の透明人間、「エデン」という刑務所から来た男、宇宙を纏った裸の少女、自己啓発を超えて不死を求めてスマートドラッグに溺れる少年。分子構造模型のような玩具の修繕を依頼する女の子を子どもテロリストと疑い、記憶喪失になった昔の恋人ヴェラを想う。シミュレーション世界「モドキ」こそが現実で、こちらの世界を「ヨソ」と呼ぶ娘アーヴァの動向は、「私」を不安にさせる。アーヴァは、センサーを埋め込んだ自分の脳の量子的なふるまいを、リアルタイムでブレインマシンに送信し、総合的な新人類の創造を目ざす「人類の庭」プロジェクトに参加している。

「私」の生きがいのタンク生活の終焉は、下の階からの苦情だった。アイソレーションタンクから漏れ出た塩水被害で、多額の損害賠償を請求されたのだ。タンクとの別れの朝、眠りから覚めた「私」の目に飛びこんできたのは、本物の窓から射し込む光だった。「私」を覗き込んでいるのは、もはやミミ・マートンの絵の人物たちではなく、「私」を訪ねたクライアント、娘アーヴァ、前妻ベッタ、亡き母、親族、そして、かつて愛した女性ヴェラだった。

夢、残像、耳鳴り、恋愛。それらはすべて主観的ではあるけれど、偽りではない。では、それらは何によってリアルとなり、何によって実在化するのか。そして、それらは定義できるのか。

レーナ・クルーンがその認識の限界を問う。

【抜粋訳: pp.66-70】

宇宙飛行士とアポフィス

私を訪ねてきたのは「宇宙飛行士」だった。というよりも、宇宙旅行者と言ったほうが正しい。ゴルフ事業で得た富で、軌道飛行による10分の無重力を20万ドルで買ったのだ。アイソレーションタンクで遊泳したほうが安くて安全だとは思ったが、口に出すのは控えておいた。思ったことをすべてクライアントに言う必要はない。
「一年前、小惑星99942を周回するツアーに参加しました。民間人で宇宙旅行者の訓練飛行にエントリーできて、出発前の厳しい医学心理学検査を受けられただけでもついていました。搭乗者は抽選で決まることになっていて、幸運の女神は私にほほ笑みました。しかし、今になって思えば、不幸の始まりだったのかもしれません。宇宙旅行は私の夢でした。貯金をはたいてまで見た夢は、行ってすぐに悪夢に変わりました。
小惑星のことなら、だいたいのことはわかります。みすぼらしい物質の欠片ですよ。石の塊です。とてもじゃないけど住めません。小惑星は、石や金属や氷でできていて、ガスを放出するものもなかにはあります。水とアンモニアと鉄をわずかに含んでいます。燃え尽きた惑星の残骸、しっぽのない彗星です。惑星に発展することのない物質にすぎません。塵と黒い澱で覆われた心臓は凍上し、表面には月に見られるようなざらざらのクレーターがいくつもあります。登録番号された小惑星は1億2765個あって、地球に衝突してきかねないものもあります。私たちの小惑星には番号だけでなく名前も付けられています。アポフィスです。
アポフィスとはエジプト神話に描かれた大蛇の悪神アペプのギリシャ語表記です。アポフィスは悪と破壊と闇の神です。これが、2029年4月13日に、地球に2万キロに満たない至近距離まで大接近すると予測されています。
アポフィスは地球の外側の楕円軌道を323日かけて公転していますが、その間に、地球の公転軌道上と二回交差します。小惑星にしては比較的明るく、全長は250メートルあります。私たちを乗せた母船は高度20キロまで上昇し、私たちの宇宙船を切り離しました。そして、私たちの船は、アポフィスに向けて発射しました。地球に帰還してからというもの、私は不定愁訴に悩まされています」
「いったい何があったんです?」私は宇宙飛行士に尋ねた。
「あらゆる事態を想定して訓練に臨んだのに、宇宙旅行の現実に私は衝撃を受けました。闇がこんなにも暗く、彼方の天体がこんなにも眩しいなんて、思いもしなかったのです。無限の宇宙の永遠の静寂に、私は怖くなったのです」
「パスカルみたいですね」
「えっ?なんですか?」
「いえ、なんでもありません。旅行中にまだ何か変わったことはありましたか?」
「ちょっとした技術上のトラブルだということでしたが、ちょっとなんてものじゃありません。アポフィスを二回周回している間も、燃料切れで帰れなくなったらどうしようと思いました。最後の一時間は地獄でした。同船していた仲間がパニックに陥ったのです。野生動物のように手に負えなくなって、しかたなく麻酔を打ちました。とどめはメデューサです」
「メデューサですか?」
「メデューサみたいでした。群れが寄り集まっているようで、中央に穴が空いていました」
「もう少し詳しくご説明願えますか?」
「光で溢れていました。縮んだり膨らんだりして、まるで心臓みたいに震えているんですよ。踊って揺らぐ花みたいでした。その中央には穴が空いていて、そこを貫いて星が輝きを放っていました。この目で確かに見たものを、私たちは敢えて確認しあいませんでした。でも、目にした現実は本当だと、私たちは感じていました」
「ですが、ほかの人たちにも見えているということが、なぜわかるんです?そんな状況なんですから、幻覚を見たのかもしれませんよ」
「そんなことありません。仲間の沈黙がそれを物語っていましたから。それから、もう一つの闇」
「もう一つ?」
「闇より暗い闇。闇の内部で蠢く闇です」
筋トレに励む暗所恐怖症の男も闇が怖いと言っていた。宇宙飛行士にも同じように答えるのがいいのかもしれない。つまり、闇は万物の起源であるがゆえに、なにも怖れる必要はないのだと。闇を思い、闇の闇を思うと眠たくなってきたが、私は答えた。
「もし私が精神科医なら、あなたを心的外傷後ストレス障害症候群と診断するでしょう。ただ、私は哲学者として、人間のように儚い生物は無限なるものに怖れを抱くものだと考えています。無限とは、膨張し続ける死です。あなたは自らの意志で個人的に死に会いに行ったのです。しかもお金まで払って。そんなことまでして、と言いたいところですが、言わないでおきます」
ここできっと私は居眠りしたのだろう。ふと目覚めると、宇宙飛行士の声が聞こえた。
「・・・酸素漏れ、宇宙ごみの衝突、構造上のわずかな欠陥、見落とした欠損、部品の不備、何でもないシステムトラブル、木星の衛星イオの噴火、閉所恐怖症、土砂降りのように降り注ぐ粒状の微小隕石が船体に穴を空けるんです・・・」
私はふたたび眠りに落ちていた。
「・・・わずかなズレ。私たちは非対称のためにここにいるんです。万物は宇宙的誤算にすぎません。じきに終焉する実験です」
「無限が問題なんです。無限こそがね。無限は始まりと終わりの間にあるものです。おかしなものですが、それはどこにでも在るんです」私はうつらうつらしながら言った。
「では火星はどうなんです?温暖で湿潤だった昔に比べて、今や乾燥しきった極寒の冷たい星。金星だってそうですよ・・・ほら、あそこにもう金星が見えますよ」
あたかも晴れた空に昇った星のように、宇宙飛行士が指したのは、私のだまし窓だった。
「夕焼けの向こうから慈しむように光る夕星。街灯が灯るより先に昇り、針葉樹の森の上に小さく煌めくあの星は、地球になれなかった金星です。酸性雨に冒され、地表の熱は鉛をも溶かしてしまうんですから」
私はまた居眠りしてしまったのだろう、宇宙飛行士の途切れた言葉が続けて聞こえてきた。
「・・・驚いて逃げだした家畜のように飛び散るんです・・・」
「何のことです?」
「ネブラ、星雲です。止めることをしない。あなたが先ほど眠ってらっしゃった時も、私がグリーンにパターを選んでいる時も、止めることをしないんですよ。気になりませんか?」
「正直申しまして、べつに」私はあくびをごまかしながら言った。
「では、幽霊エネルギーはいかがです?宇宙をはてしなく膨張させ、ついには終わらせる。終焉の100億年前に星雲を引き裂き、10億年前に銀河を粉砕し、破片を飛ばす。数ヶ月前にダークエネルギーは太陽の引力を弱め、地球を軌道から振り切る。あっけなく!一時間前に地球は無に還り、10秒前に分子と原子の結合は崩壊します」
私は目が覚めた。
「続きはまた来週にしますか?それとも、新しいパターを買いにお出かけになったほうがよいでしょうか」

文/訳 末延弘子 レーナ・クルーン著『偽窓』(2009)より


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