KIRJOJEN PUUTARHA
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スウェーデン支配下時代の文学 |
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啓蒙と初期ロマン主義18世紀前半まで状況詩が栄えていましたが、18世紀半ばにヨーロッパで啓蒙主義と初期ロマン主義が起こると、 その思潮がフィンランドにも流れてきました。初期ロマン主義盛隆期のヨーロッパでは、観念と感情が結合します。 初期のロマン主義を代表するルソーの作品に見られるように、啓蒙に表れる合理性に加えて、感情性や心情性、 また哀感が生まれました。感情性や心情性を強調することは、自然に対する概念にも影響を及ぼしました。 ただ糧を与えて生活を支える実用的な自然から、初期ロマン主義的な、いわゆる風景の美しさを兼ね備えた自然としても見られるようになっていきました。このような自然における新しい概念の影響は文学にも現れました。以前のバロック時代のような型にはまった様式から解き放たれ、作品の中で文学と現実の風景が混合して現れるようになったのです。 啓蒙思想による合理性の追求、初期ロマン主義による観念と感情の結合などの要素は、自然、家族生活、民俗性 などの題材を助長する契機となりました。自然描写の典型は、フィンランド初期女流詩人として知られるキャサリーナ・ シャルロッタ・スウェーデンマーク(1744-1813)の詩に表れています。この詩はグスタフ三世に献上さたもので、 1770年代に特徴的なロココ調的な春の描写で始まり、その流れるリズムに反復効果が生きていいます。
家族生活を取り上げている作品は比較的早く、18世紀前半にフィンランドで書かれています。例えば、ヘンリック・リリウス(1683-1745)は、兄の結婚式に寄せて1723年に婚礼詩を書いていています。田園的な情景、夕暮れに身を置いて密かに聞き耳を立てる詩人、結婚生活の喜怒哀楽を語る羊飼い。詩の主題は中産階級家族の幸せです。
また、家族における女性の立場を扱った、ガブリエル・カラムニウス(1695-1754)の歌 「歌うべき歌一つあり。/ 嘆きを抑え、息子に結婚のいろはを諭す父のこと / 家と人生の維持を諭す父のこと / 諸々の教えを娘に / 男やもめに、そして妻に」(1743)なども知られています。
民族的な要素を含んだ作品にも関心が高まりました。他国に視点を向けると、スコットランド人マックフェルソンの 『古代詩篇』(1760)、ドイツ人ヘルダーの『民族歌謡』(1778)など民俗詩に関する書物が記されています。民俗詩や神話などがこの当時に注目を集めたのは、啓蒙による合理主義的な考え方の中で、これまで絶対的であったキリスト教的な解釈が、精神世界を表現する上で適さなかったと考えられています。そのような中で、地域の固有文化や、その地域性を育んだ民族に対する関心が昂揚し、地域に根差した文化(民俗詩、神話、民俗歌謡)を介して精神世界が表現されるようになりました。これにより初期のロマン主義時代に民族の意義が叫ばれ、一つの言語と民族(国民)が全体を形成するということがヘルダーに代表されるように説かれていきます。 同様に、この時期フィンランドでもヘルダーと親交のあったトゥルク大学雄弁学(ラテン語学)教授ポルトハン(1739-1804)により、フィンランドで最初の民俗詩研究論文「フィンランドの詩」(1766-78)が表されています。またこの論文は、フィンランドで最初の民俗詩の研究であり、その中でポルトハンは自国民を強調しています。ポルトハン以前にも既に、国民性を表したラテン語論文がダニエル・ユスレニウス(1676--1752)によって表されています。オーボ・アカデミーで最初の博士論文「新旧トゥルク」(1700)の中で、ユスレニウスは、いかにフィンランドとトゥルクが重要であるかということを語っています。この論文はまた、最初のフェンノフィーリ(Fennofiili/熱狂的フィンランド嗜好)の現れであり、これは19世紀のスネルマンを代表とするフェンノマーニ(Fennomaani)の前進となります。この論文の背景には、祖国、地方語や自然などを賞賛するラテン語修辞学的な考え方があり、ポルトハンの啓蒙的な姿勢とは意を異にしています。また、フェンノフィーリは本土スウェーデンに対するフィンランドの地域意識の表れでもありました。 このような郷土に対する愛着は、極僅かではありますが文芸の中でも表現され始めます。ポルトハンの教え子でフィンランド・ ロマン主義の先駆者であるフランツェーン(1772-1847)は、精神世界を自然と融合させ、郷土に想いを馳せた詩 を残し19世紀に本格化するフィンランド・ロマン主義文学の礎を築いています。 |
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