【要約】
世界は、沈黙した。空は人間が改良という名のもとに生み出した化学薬品のスモッグに覆われ、過去と未来を繋ぐ木々の緑も鳥の歌もない。
壊滅した世界に、ホテル・サピエンスは屹然とそびえ立つ。ここは宿泊施設でもあり、シェルターでもある。翻って介護施設でもあり、病院でもある。入居者は住人でもあり、患者でもある。彼らは皆、同じ不治の病を患っていた。病名は「人間性」だ。
ホテル・サピエンスは医学研究所でもあり、また教育機関でもあった。住人の世話をするのは人工知能シスターで、夜になると小さな鏡で住人の額を照らし、彼らの思考や夢を調査する。ホテル・サピエンスでは、かつての哲学者たちをホログラムによって復活させ、講義の時間を提供した。復活したのは、ニコラ・テスラにアッシジの聖フランチェスコで、新デカルトは「我は夢見る、故に我あり」と唱えた。
住人は、いっぷう変わっていた。疑似哲学講義には閉口しつつもシスターの疑似料理には満足している一般夫人、気象現象は強大な何かに操作されていると疑う雲の観察者、機械が創発的に人間を超えたというヒッグス・ボソン、被爆した元エンジニア、死期を予言する占い師、盲目の眼科医、精神病を患う元セラピスト、自分の影を失った男、自然哲学協会員の老花屋。彼らはかつてあった世界を語った。自覚的に選択し、意志によって開いてきた人間は今、計算するだけの閉じた機械の世話になっていた。
人間は何を忘れてしまったのだろう。人間は、誰の、何の前に立つ者でもなく、誰をも、何をも所有する者でもない。私たちの生命は、人間も、鳥も、昆虫もすべて、大きな流れの内の等しく小さな担い手だ。私たちの成す行為は、どんなに小さなことでもすべて他に連なる。それは悪にもなるが、善にもなる。そんな希望を唯一の子どもにクルーンは託し、私たちに警鐘を鳴らす。
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