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Hotel Sapiens    原書名:  Hotel Sapiens
 (ホテル・サピエンス)
 作者名:  Leena Krohn, 1947~
 レーナ・クルーン
 出版社 / 年:  TEOS / 2013
 ページ数:  164
 ISBN:  978-951-851-268-7
 分類:  小説
 備考:  Auringon lapsia
 Valeikkuna
 Kotini on Riioraa
 Mehiläispaviljonki. Kertomus parvista
 Unelmakuolema
 Sfinksi vai robotti
 Pereat mundus
 蜜蜂の館
 ペレート・ムンドゥス ― ある物語
 ウンブラ-パラドックス資料への一瞥
 タイナロン-もう一つの町からの便り

【要約】

 世界は、沈黙した。空は人間が改良という名のもとに生み出した化学薬品のスモッグに覆われ、過去と未来を繋ぐ木々の緑も鳥の歌もない。
 壊滅した世界に、ホテル・サピエンスは屹然とそびえ立つ。ここは宿泊施設でもあり、シェルターでもある。翻って介護施設でもあり、病院でもある。入居者は住人でもあり、患者でもある。彼らは皆、同じ不治の病を患っていた。病名は「人間性」だ。
 ホテル・サピエンスは医学研究所でもあり、また教育機関でもあった。住人の世話をするのは人工知能シスターで、夜になると小さな鏡で住人の額を照らし、彼らの思考や夢を調査する。ホテル・サピエンスでは、かつての哲学者たちをホログラムによって復活させ、講義の時間を提供した。復活したのは、ニコラ・テスラにアッシジの聖フランチェスコで、新デカルトは「我は夢見る、故に我あり」と唱えた。
 住人は、いっぷう変わっていた。疑似哲学講義には閉口しつつもシスターの疑似料理には満足している一般夫人、気象現象は強大な何かに操作されていると疑う雲の観察者、機械が創発的に人間を超えたというヒッグス・ボソン、被爆した元エンジニア、死期を予言する占い師、盲目の眼科医、精神病を患う元セラピスト、自分の影を失った男、自然哲学協会員の老花屋。彼らはかつてあった世界を語った。自覚的に選択し、意志によって開いてきた人間は今、計算するだけの閉じた機械の世話になっていた。
 人間は何を忘れてしまったのだろう。人間は、誰の、何の前に立つ者でもなく、誰をも、何をも所有する者でもない。私たちの生命は、人間も、鳥も、昆虫もすべて、大きな流れの内の等しく小さな担い手だ。私たちの成す行為は、どんなに小さなことでもすべて他に連なる。それは悪にもなるが、善にもなる。そんな希望を唯一の子どもにクルーンは託し、私たちに警鐘を鳴らす。

【抜粋訳: pp.75-77】

地球の旗

 隣の部屋にサカリという名の少年が住んでいる。ホテル・サピエンスの住人のなかで唯一の子どもだ。サカリの家族に何があったのか、私は知らない。だが、シスターは他の誰よりも、サカリを訪ねて世話をしている。この子を見ていると、遠くに行ってしまったこの子の両親を思う。これを思う時、ここにいるどの住人にも、とうに亡くなっているとはいえ母と父がいるという、特別な事実に気づく。だが、人工知能シスターたちにはいない。遺伝、有性生殖、利己的遺伝子、受胎、出産、失われた大陸に連なる細胞系を思い、進化、創発、偶然、時間の輪、時代の移行を思う。
 ヒトという種を思い、ホテル・サピエンスのシスターの無性を思う。ここが違うのだ!この相違ゆえに、シスターは、人間であることが何なのか決して理解できないのだ。
 人間の心が、ヒトであらしめる本性をもたらすが、働き合いなくして成立しない。羊に育てられた子どもは人間にはならず羊になる。狼に育てられた子どもは狼になる。だが、機械に育てられた子どもは死ぬ。
 サカリの口から、両親や家族の話はついぞ聞いたことはない。他の住人もそうであるように、もっとも考えていることほどサカリは語らない。けれども、帳が降りると、孤独ゆえに泣くサカリの声が部屋から聞こえてくる。
 サカリは、成長する唯一の住人だ。そのことが、私たちとはまるで別の種であるかのような違いを与え、ここにはまだ時間があるということを思い出させてくれる。ホテル・サピエンスに時計はない。しかし、私たち自身が時間なのだ。

「百メートルもある反射望遠鏡があるんだよ、知ってる?筒をもっと長くすると、ついには何も見えなくなるんだって」
 あるとき、サカリが言った。
「そんな望遠鏡を作る価値はあるのかしら?」
「あるよ」
 サカリはいったん言葉を切ると、しばらく考えこう継いだ。
「でも、作れる人が世界にはたしているのかわかんないや」
 サカリはドアにいっぷう変わった旗を付けていた。今までに見たことがない旗だったけれど、美しかった。黒地に大きさの違う三つの球があり、球は白と黄色と青だった。
 どこかの国旗なのかサカリに尋ねた。
「地球の旗だよ。ぼくが縫いあげたの。黄色い球は太陽で、青は大地、いちばん小さい白いのは月なんだ」
 あるとき、庭を歩いていると、サカリが地面に寝そべっていた。両目をぱっちり開いて大地に耳をぴたっとくっつけている。私は心配になってサカリの方へしゃがみこむと、サカリはにっこり微笑んだ。
「何してるの?どこか具合でも悪いの?」
「ぼくね、聴いてるの。トビイロケアリだよ」
「アリが何か話でもしているの?」
「もちろんだよ。知らないの?アリの話も危険信号もミニマイクで拾えるんだよ」
「知らなかったわ。サカリはミニマイクを持ってるの?」
「ううん。でもね、ぼくは耳がいいの」
「アリは今、何を言っているのかしら?」
「危ないぞって」
「アリはどうやって危険を知らせるの?」
「ぼくらと同じさ。叫ぶんだよ。困っている人はみんなそうでしょ。SOSはどんな言葉も同じだよ」
「それじゃあ、アリは今、何に困っているのかしら?」
「足もとが揺れるのがいやなんだ」
「揺れてるの?今?」
「感じないの?」
「アリがあなたの耳のなかに逃げこまないように気をつけてね」

 そのアリの一匹を、サカリがうっかり踏んでしまったことがあった。サカリはひどく申し訳なさそうにこう言った。
「わざとじゃないんだ」
「もちろん、そんなことわかってるわ」
「わざと誰かに悪いことをしたらね、そのときはみんなに悪いことをしたことになるの。知ってた?」
「たった一匹のトビイロケアリでも?」
「そうだよ」
「どうしてそう思うの?」
「思うんじゃないよ。ぼくは知ってるの」
「それは善いことも同じ?」
 サカリはしばらく考えていたけれど、やがて瞳を輝かせてこう言った。
「そうなんだ、気づかなかった。でも、そうだよ、同じだよ、うん、同じ」

文/訳 末延弘子 レーナ・クルーン著『ホテル・サピエンス』(2013)より


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