【抜粋訳: pp.123-125】
トッティは家を出た。インドのゴアに瞑想の旅に出た知人の知人から、うまいぐあいにワンルームを借りることができたのだ。こうするのがいちばんの解決策だと妻のエイラもうなずいたものの、二人は毎日のように会っていた。
こういう状況になる前に、トッティは二度にわたって改正された病気休暇を申請し、録音スタジオを休んでいた。雑音と騒音につきまとわれて仕事もままならないようになっていたからだ。音響処理をほどこさなくてはならないインタビューに複数の声が混じったのをきっかけに、一回目の病気休暇をとった。その声は嫌なものだった。以前、トッティにズッキーニを買うように急かしたり、夕焼けを見るように勧めたりしたあのときの優しい声とはまったく違っていた。トッティが気に入っていた声は、もう聞こえなかった。この新たな声は、インタビュアーとインタビュイーの口調をまねすることもあったし、二人のやりとりに皮肉たっぷりにコメントをつけくわえては、いやみな笑いまですることもあった。
編集予定の会話を聞くことすら辛くなりはじめ、なぜほかの人には聞こえないのかトッティにはわからなかった。日に日に声が厚かましくなってくると、悪魔の声に聞こえるときもあった。
トッティの調子がよくないということは、スタジオ中に広まっていた。
だいぶん症状も落ち着くとトッティは職場復帰したが、生中継の放送中にふたたび音響ヘッドホンを愕然としてかなぐり捨て、デジタルコンソールを蹴ってひっくり返した。
疾病年金を申請して、引き続き二度目の病気休暇をとった。スタジオへは通勤しなくなったものの、矛盾しているようだが、それからは一日中、音響調節するようになった。ただ以前と違うのは、他人の声を制御したり編集したりしないことだ。けれど、それこそがいちばんの悩みだった。
エイラ以外の人と会うことはなかったけれど、そのほうがかえって気が楽だった。ところかまわず知らない声に邪魔されるかもしれないという不安を抱きながら、知人に会うのは辛かったし怖くもあったからだ。
「ヤッテみせろ!」と言う声もあれば、「トッティはめちゃくちゃなこと言ってるぞ」と言う声もあり、「カン違いすんな!」と言う声もあった。聞こえないふりなんてできるだろうか。
たいてい町の雑音から分離してきた声がしだいに前方へやってきて、そこにさまざまな話し手が結合する。穏やかにおしゃべりするものもいるけれど、多くが興奮して罵詈雑言を吐く。ぶつぶつつぶやいたり、同じことをいつまでもぼそぼそしゃべったりして、なにを言っているのか、それにどんな言語をしゃべっているのかすらトッティにはわからなかった。
エイラが食事をつくりに部屋を訪ねてくる。たいてい掃除もやってくれる。というのも、トッティは食べることすらしなくなったというか、日課を忘れてしまっていたからだった。トッティが「来るな」という日も、エイラは来ようとした。
散歩に出かけたり、公園やカフェやデジタル通信センターに行ったり、「オールタナティヴ・ミュージック」誌やパイナップルジュースを持ってきたりと、エイラはいつでもなんでもやってあげたし、おしゃべりの相手もしてあげた。彼女が声についてずばり聞くことがめったになかったのも、聞くのが怖かったからだ。聞かずともトッティが声を聞いていることがわかっていた。だからこそ、エイラはますます饒舌になり、テンションを上げた。テレビをつけて、冷蔵庫から食べ物を探し、税務署で起きた偶然の出来事について、上司の不倫について、封筒にゴキブリを入れて送ってきた怒り狂った客のことについてべらべらしゃべり続けた。
トッティはエイラに感謝していたけれど、二人がこうやって会っていることに希望の光は見えてこなかった。
この件について、トッティはルシアにすべてうちあけた。
「私の望みは、声がひとつ残らず黙ることです。声の向こうに外海のざわめきが聞こえます。そのざわめきが膨らんで、ゴミをすべてを飲みこんでくれたなら、と思っています」
「大丈夫ですよ。世界中の声という声は同じ白いざわめきの中へと沈んでいくんですから」
「この声と一緒に生きていけるような気がした時期もありました。いちばんおしゃべりな声を白雪姫の小人の名前を借りて「ごきげん」と名づけました。それから、ほとんど聞き取れない声でときどき言葉を発するのは「ぼそぼそ」と名づけました。そうやって、怖がるのをやめたんです」
「やめられましたか?」
「怖くはありません。でも、疲れました。ただ、私は眠りたいだけなんです。最近では、夢の中や夢を介してまで話しかけてくるんです」
「きっと、それは夢にすぎませんよ」
「先生には、私が勝手に作り出した話だとは思ってほしくないんです。この声は、私が想像したものでもありませんし、無意識にあるものでもないんです」
「つまり、現実だと言いたいのですね?ある部分においては?」
「なにが本当でなにが本当でないのか、先生には区別がつきますか?私は、区別できると昔は思っていました」
「すべてが曖昧です。ですが、あなたの声を有機的な生物として、ある種の悪霊として考えると、そういった生物となにかしらの契約を結ぶことはできないんでしょうか?つまり、あなたが仕事をしていたり、眠っていたり、目に見えている人間と付き合ったりしている間は、邪魔しないようにと頼むことはできないんでしょうか。そして、彼らがなにを欲しているのか尋ねることはできないんでしょうか?」
「答えてはくれません。場所も時間も選ぶことなく、冗談を言ったり、ぺちゃくちゃおしゃべりをしたり、からかったり、文句を言ったりします。つぎはなにをしでかすのか、まったく見当もつかないんです」
「そうですか。私たちの周りにはいつだってさまざまな目に見えない生物がいます。人間よりも高位なものもいますし、低位なものもいます。それに、クズ同然のものもいます。そういったものすべてを感じとる必要はありません。人間の脳が非本質的なものとして余計なものを濾過してくれますから。ただ、なんらかの理由で、あなたの脳の濾過装置は機能していないんです」
「それもひとつの理論でしょうね。ですが、そんなこと役に立ちますか?うるさくざわめく声が聞こえるんですよ。耳を澄ましてみてください!本当にわからないんですか?」
「わかりません。わかるのは、あなたの声だけです」
「終止符をうちましょう!わたしを受け入れてください!」
「私としては夢死センターの規則に則らなくてはなりません。あなたのケースの場合、精神病の問題を無視することはできません。声はあなたの人生のある段階に入りこんできたと、私は考えています。ですから、乗り越えられますよ。声にあなたが滅ぼされることはありません」
「先生の言葉だけでも聞き取れるなら、先生を信じたいです」
トッティはがくりとうな垂れて夢死センターを去っていった。ルシアは自分の微力を感じた。音響技術者の声は幻聴なのか、それとも悪霊なのか。あるいは、たんなる脳生理学的な問題なのか。その問題を解くには、ルシアは適任ではなかった。
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