KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

ロシア大公国時代の文学

長い間スウェーデンの支配を受けていたフィンランドは、1809年から1917年まで今度は東の隣国であるロシア大公国の自治領となります。このロシア大公国時代と呼ばれる時代に、独自の文学機関であるフィンランド文学協会(Suomalaisen Kirjallisuuden Seura)が1831年に設立されたり、三人の偉人と称される人物が登場したりと、フィンランドの文芸文化は飛躍的に発展を遂げます。この時代についていくつかの項目に分けて記述していますので、お好きな項目を右のメニューより選択してください。

なお、人名や書籍は読みやすいように日本語に訳して記載しています。

原語名は下記の索引を参照してください。

■ 索引
■ 参考文献一覧


アレクシス・キヴィ

1860年代に入ると、フィンランド語による文学が本格的に登場し始めます。その背景には、1863年に皇帝アレクサンドル2世がフィンランド語を行政および法律用語に昇格したことが挙げられます。大学では既にフィンランド語の教授職が1850年に設けられていましたが、行政語としてのフィンランド語の地位向上は、文学上のフィンランド語の立場を助長しました。フィンランド語学教授アウグスト・アルクヴィスト(A・オクサネン, 1826-89)は、1861年にヘルシンキ大学にてフィンランド語の奨励詩を発表していいますが、教育言語としてのフィンランド語の重要性がよく表れています。

進み出るがいい 芬蘭の歌姫も、
今こそ 芬蘭の大講堂へと!
昔のおまえは 溶け込めない異人であったけれど
ここには おまえの居場所がある
おまえの存在は認められた
荘厳たる古代神ムーサの傍らに
シェークスピア ダンテ ゲーテのムーサの傍に
おまえの場所がある
胸を張って 進み出るがよい!

先に述べた奨励詩はフィンランドの教育計画であると言ってもよいです。オクサネンは、フィンランド語やフィンランド文化を整え、文学や文化は西ヨーロッパの伝統を模範にすることを目的としていました。つまり、オクサネンにとって原始的にみえるカレヴァラ韻 律よりも、ヨーロッパ形式のソネットやバラードなどの紹介に力を入れたのです。

Aleksis Kivi フィンランド語の文語化は、スネルマンの主張するフィンランド語で書かれた国民文学の創作にも結びつくことになります。この考えを推し進めたのが国民的作家アレクシス・キヴィ(1834-1872)です。キヴィは、スネルマンが重要視した小説や劇作や、ルーネ ベリを模範とした抒情詩作品を残しています。作品の特徴としては、民俗詩や民族歌謡、聖書や聖歌、俗謡や西洋文学という具合に多面的に題材を求めていることです。例えば、劇作『クッレルボ』(1864)は民族叙事詩を題材としており、『放浪者たち』(1867)はシェークスピアを模範とし、『レア』(1869)は聖書を題材として取り入れています。しかしながら、オクサネンと違って、キヴィが求めていたものは西洋の形式的な言葉ではありませんでした。

「オクサネンの詩情性や言葉、精神や文章作法などはフィンランド語を一つとして促進させるものではない。むしろ、凝り固まった形の中に永久に留めさせるものである」と、キヴィが1869年にスィオドルフ・レインに宛てた手紙で言及しているように、言葉に対して自由な考えの持ち主でした。キヴィにとって書き言葉は「魂も火もない、つまらないもの」であり、話し言葉という息づく言葉によって作品は動的な効果を得るものなのです。

キヴィの劇作作品は、「フィンランドの劇場」の項目で扱うことにして、ここでは抒情詩人や小説家としてのキヴィに触れることにします。抒情詩人としてのキヴィは、ロマン主義的で観念主義的な詩を残しており、主要な作品は『ヒースの地』(1866)に収められています。ロマン主義詩人として、キヴィに特徴的なのは自然に溶け込むことであり、つまり自然描写を介して感情を表現することです。また、森が奏でる音楽も重要な要素でした。代表的な詩として、「鳥の住処」や「生娘と泥棒」、そして小説『七人兄弟』に収められた「栗鼠の歌」が挙げられます。「栗鼠の歌」に含まれる愛国心もまた、キヴィの詩に特徴的です。愛国的な要素は「スオミの国」に代表され、ルーネベリの「我が祖国」のように観念的な情景からフィンランド性を描写しています。

なんという至福の生
ゆらりゆらりと揺り城にて!
こいでいるのは小栗鼠
愛しき樅の懐にて
雷鳥の地にカンテレは響きたり!

幾千たる湖に
煌々たるは夜空の星
カンテレの旋律は
岩間を抜けて木霊する
響き渡るは金色草に生える松
ああ スオミの国よ

「栗鼠の歌」より

『スオミの国』より

叙情詩では、ロマン的また観念的に描写して高尚さを追及しているのに対し、散文では、大衆性(風刺性)を介して国民を描写しています。大衆性を盛り込んだ長編小説が、『七人兄弟』(1870)です。田舎育ちで喧嘩好きな七人兄弟が主人公であり、全員が教養のある人物に成長する過程を物語った教養小説作品でです。無学な兄弟の野性的な性格を動的に表現するために、乱暴な話し言葉や暴言を用いています。このようなキヴィの言葉遣いは、フィンランド語を西ヨーロッパの文芸に近づけたかったオクサネンの目には原始的に映り、『七人兄弟』はフィンランド性を蹂躙した作品として批判されました。同時期にグンメルス(1840-98)が、貧しい学徒ヨハンネスを主人公とした恋愛長編小説『上流階級と下層階級』(連載小説掲載時期1864、出版時期1870)を書いていますが、こちらのほうを高く評価しています。

理解を得られなかった『七人兄弟』ですが、シグナエウスやスネルマンなどフェノマーニを推し進める人々はキヴィを支持しました。来るべき将来を予測し、読み書きの教養を身につけ、討論や団結性をもって問題に取りかかるといったキヴィの考え方は、当時の散文にあるべき要素を満たしていたからです。オクサネンは『七人兄弟』はフィンランド性を台無しにしていると強調していますが、むしろ、この作品にはフィンランドが主体的に描かれています。歴史的に解釈すると、フィンランドの原始的文化(生活)を七人兄弟の性格に結びつけ、そのような文化は『ABC教本』などのように教会組織の手によって教養を受け、また、教養や団結性をもって近代的な文化(人物)に至るというフィンランドの歴史的な変遷を実に良く表しているのです。

〔・・・〕日曜日や安息日には、エーロは穴が開くほど新聞を読んでいるか、近況報告や地元の教会の時事問題を書いては新聞社に送っているかのどちらかだ。 明瞭簡潔で説得力があり要点を突いたエーロの文章は、相手側に快く受け取られた。このよ うな趣味が高じるにつれ、エーロの人生観や世界観も広がりを見せた。もはや、情報も何もな いような、つかみ所のない地に住んでいるわけではないのだ。辺境に位置した愛する母 国がどこにあるのか、芬蘭の国民が住み、構築し、戦闘した母国がどこにあるのか、 先祖の骨が眠っている懐がどこにあるのか、心得ているのだ。〔・・・〕

『七人兄弟』より

昔は反復的に読まれた教会書物『ABC教本』が主流であったものの、近代になるにつれ使い捨てされる新聞や創作性のある書物へと変遷する過程が読み取れます。キヴィの描いた国民像やフィンランドはすぐには理解を得られなかったものの、次世代作家ヴォルテル・キルピやヨエル・レフトネン、文学研究家ヴィルヨ・タルキアイネンなどより支持を得ました。そして、スウェーデン語で国民像を表し国民的詩人と称され たルーネベリと肩を並べ、フィンランド語で国民像を表した国民的作家となり、フィンランド語文学の基盤を築いたのです。


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