KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト
スウェーデン支配下時代の文学 |
||||
ロマン主義ロマン主義はイギリスやドイツに端を発しています。イギリス文学者の中でも、ボヘミアン的な生活を送ったバイロン は人気を博し、ロマン主義作家の模範となりました。ドイツ文学者の中では、とりわけ上流階級に対抗して民族文化の興隆 を目指したヘルダーが注目されました。ヘルダーは、民族歌謡の収集に力を注ぎ、民謡集『諸民族の声』を出版しました。こ れを契機に民族歌謡や民族童話(グリム童話など)が重要視され始めます。一般的にロマン主義の要素として、感情や回顧、 自然が挙げられます。自然は人間の精神世界を表すとされたのです。つまり、単なる比較対象としての自然から、自然が主観的に 表現され始めたのです。 フィンランドに於いて、ロマン主義が本格化するのは19世紀に入ってからですが、18世紀後半に既にフランツ・ ミカエル・フランツェーン(1772-1847)のように、ロマン主義的要素を含んだ詩を書いた者もいます。フランツェー ンが、ストックホルム通信に投稿した詩は、ロココ調に典型的な田園的な自然観とは一線を画し、自然そのものの美しさに 感情を織り込んでいます。その詩には新鮮さ、新たな希望、そして信頼が垣間見られます。
フランツェーンは1801年に歴史学と合理哲学の教授に就きます。フィンランドの特色と歴史はフランツェーンの関心 を仰ぎ、北欧諸国への興味も湧くなど多面的に詩を残しています。歴史や郷土に着目した背景には、民族の言語で書か れた書物の重要性を説いたヘルダーの思想に代表されるようにロマン主義に特徴的な考え方がありました。このような概念は、学問にも取り入れられ、歴史学が多く学ばれたようです。1853年に、ヘルシンキ大学に「文学の歴史学問」という名の学科が設けられていますが、それは文学が民族性を語るという考えに基づいます。このようなロマン主義の民族意識は、啓蒙思想やロシア化と時 を同じくし、19世紀に民族ロマン主義として開花することになります。 最終的にフランツェーンはスウェーデンに移住し、司教を務めた後、1847年に生涯を終えます。フィンランド初期ロ マン主義を彩ったフランツェーンの存在は大きく、後に国民詩人として称されるルーネベリの出現までフィンランド の詩にその名を馳せることとなります。 |
||||