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スウェーデン支配下時代の文学

このページでは、フィンランドがスウェーデン王国の支配下であった時代(約1200~1809年)の文芸文化を考察しようと考えています。この時代に宗教書物などの翻訳を介して文字による文化が発達を遂げます。この時代についていくつかの項目に分けて記述していますのでお好きな項目を右の目次より選択してください。

なお、人名や書籍は読みやすいように日本語に訳して記載しています。

原語名は下記の索引を参照してください。

■ 索引
■ 参考文献一覧


ミカエル・アグリコラ

中世、及び宗教改革時代、文芸文化の観点から重要な言語であったのが、西洋のキリスト教や学識層で使用されていたラテン語でした。ラテン語は宗教改革時代以降も、宗教機構と知識階級を連結する役割を果たしました。ラテン語に加えて重要な位置にあったのが地域言語、つまり国の言語です。16世紀以前のフィンランドでは、第一文語としてラテン語、あるいは、中世に政治や法廷言語としてラテン語と肩を並べるまでに定着していた第二文語としてのスウェーデン語が用いられていました。

宗教改革後、地域言語が重要視され始め、識字運動が積極的に行われました。宗教改革の基本概念に則って、識字運動の目的は神の言葉を国民に伝え、理解させることであり、その中心となって活動したのが教会組織でした。それゆえ、当時の文献は概して宗教関連のものであり、フィンランドに於いても『トゥルク(オーボ)人の手引書』やフィンランド語による主の祈り「父なる神」が含まれたセバスティアン・ミュンスターの『天地学書』が記されています。このような状況の中、とりわけ第三文語であるフィンランド語を全面に押し出した人物がミカエル・アグリコラでした。

ドイツ文化の影響を受けていたヴィープリで、中世から受け継がれてきた人文主義や宗教改革運動を体験したアグリコラは、「1529年に司教となり、トゥルク大聖堂、及び訪問活動において熱心に教義を説いた」と『芬蘭司教年代記』に記されています。この当時、フィンランドの司教区はトゥルクとヴィープリの二つに分かれており、アグリコラはトゥルク司教を、そしてパウルス・ユーステンがヴィープリ司教を務めていました。アグリコラに関する資料は、ユーステンの書いた『芬蘭司教年代記』に拠っています。アグリコラの代表作はまず、『ABCの教本』です。このフィンランド語で刷られた最初の作品は、宗教改革精神に則って書かれ、文字や数字の読み書きの他に、教義や信仰告白、詩「父なる神」、天使の言伝「アヴェ・マリア」、洗礼、祈りの言葉などが含まれています。次にアグリコラは、900頁にも及ぶ『祈祷書』を出版します。『祈祷書』はルター派祈祷書ですが、「芬蘭の言の葉聞こゆれば、全ての物を解すなり」と序文で述べているように国民の言語であるフィンランド語の価値と立場を擁護しています。

更に、1548年にアグリコラは、『新約聖書』のフィンランド語訳(『Se wsi testamenti』)を手掛けています。『新約聖書』は教会教本として公認され、作者不詳とされてはい ますが、ユーステンの『芬蘭司教年代記』ではアグリコラの業績であることが記されています。アグリコラは、必要に応じて省略や付加をフィンランド語訳に施しました。「希臘語より半分、ラテン語、独逸語、瑞典語より半分芬蘭語に訳しぬ。基督の精神と慈悲を我々に与え賜れし」と序文で語ったアグリコラの偉業は、2400頁にも及んでいます。

このようにアグリコラはフィンランドの第三文語、つまりフィンランド語で執筆しました。その目的はエラスムスとルターの指針に基づいて、神の言葉を国民の言葉で伝える事でした。このようにアグリコラがフィンランド語で記した文献により文語としてのフィンランド語の礎が築かれることになりました。


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