KIRJOJEN PUUTARHA
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スウェーデン支配下時代の文学

このページでは、フィンランドがスウェーデン王国の支配下であった時代(約1200~1809年)の文芸文化を考察しようと考えています。この時代に宗教書物などの翻訳を介して文字による文化が発達を遂げます。この時代についていくつかの項目に分けて記述していますのでお好きな項目を右の目次より選択してください。

なお、人名や書籍は読みやすいように日本語に訳して記載しています。

原語名は下記の索引を参照してください。

■ 索引
■ 参考文献一覧


状況詩

17世紀初頭の文芸文化の特徴として、先ず教義世界、つまり様々な教育詩など教育文学の向上を図っている点が挙げられます。 例えば、エリック・ソロライネンの『説教集』(1621)には種々多様な説教が含まれており、「教会へ足を運ぶ前に、 家庭において自ら読み、または耳で聞くならば、説教が教える所が判るであらう」と記されているように、家庭での 読書の重要性を語っています。次に階級世界、つまり社会階級における上下関係を状況詩によって表しています。 これらの教育詩や状況詩は、トゥルク大学の教師や学生によって書き記され始めます。

フィンランドで最初の大学であるトゥルク大学(1642年設立)の存在は言語文化の発展の一端を担いました。 大学では人文学の教育が理想とされ、ラテン語が主に用いられていましたが、17世紀に興じられた状況詩は、 ラテン語に加えてスウェーデン語もしくはフィンランド語でも記されています。しかし、当時、大学を占めていたのは スウェーデン人教師であり、またフィンランドで活躍していた詩人はスウェーデンに生まれ、スウェーデン人による 教育を受けた人たちでした。つまり、当時のフィンランドの文芸は、殊更フィンランド性を強調するものでもなく、フィ ンランド語は影を潜めていました。

ヨーロッパの文学様式の発展と共に生まれた状況詩は俗謡、祝辞詩、婚礼詩、弔辞詩、詩の形式を取った歴史的出来 事の描写(架空物語や伝説)などがあります。状況詩は、主に親族や友人の冠婚葬祭時に書かれました。この背景には家族や個人 が重要視され始めたことが挙げられます。俗謡は聖職者や官僚、トゥルク大学の教師や学生たちなどの男性が興じたものです。 状況詩の中でも、婚礼詩や弔辞詩が多く書かれています。婚礼詩は変化に富んでおり、歌形式や綿々と続く神話物語で あったり、また結婚をテーマとした討論や小喜劇であったりと幅広いものでした。神話を主題とした婚礼詩には、恋人同士の 橋渡しであるキューピットとヴィーナスが登場します。弔辞詩は、婚礼詩ほど変化に富んでいません。男性に寄せて書かれ た弔辞詩であるならば、詩は男性の人生や業績について語り、一方、対象が女性であるならば、その純潔さや篤信姿勢 が歌われていました。弔辞詩は概して、哀悼者に慰みの言葉をかけるものでした。例えば、1679年にオロフ・ヴェクシオニ ウスは、ヨハン・ストールボムを悼んで弔辞詩を書いています。詩は暗澹とした色を帯びています。 死者に残る宝は「この真っ暗な穴」しかなく、「宝」の消極的な説明が次に続きます。

私には泥濘がみえる。
そこには蛆虫が湧き、
這いながら行き来している。
これなのか、酷にも我等に残されるものは。
死が
死体の塩が
命を奪うその時に?
お前の唯物は、
お前の鼻は、
お前の髪は、
お前の手は、一体今、何処にあるのだ。
お前の腕力は、お前の口は、お前の白い歯は、一体何処にあるのだ。
私のストールボムは、何処に行ってしまったのか。

詩は、ストールボムの徳行については触れていません。「時の煌く歯」は役に立たなかったのかと尋ねても、 「全ては、たった一日で終わってしまうものさ」と悲観的に答えています。また、人間の短い人生は戦場であるとし、 犬と猿のように夫婦仲が上手く行かなかった人生から今こそ解放され、自由の身になったストールボムについて 、詩は「世の中は鬼ばかり、お休みなさいと我々に声を掛けるのは、正直さと善行だ」と語ります。17世紀後半より、 文学において宗教世界と俗世界が混在し始めます。ヴェクシオニウスの詩は、その一例です。


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