KIRJOJEN PUUTARHA
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独立期~第二次大戦までの文学 |
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象徴主義とデカダンス新ロマン主義は二面的であり、前項で述べたカレリアニズムに代表される「民族的新ロマン主義」と、ここで取り上げる「象徴主義とデカダンス」に大きく分類できます。後者の「象徴主義とデカダンス」は19世紀中頃のフランスに誕生し、19世紀末には多大な影響力を持ちました。文学や詩の理論などは、チャールズ・ボードレールやステファン・マラルメ、ポール・ベルレーヌ、アーサー・ランボーといったフランス詩人たちによるものです。文学の哲学的な背景にはアーサー・ショーペンハウエルやニーチェなどのドイツ哲学者が大きく影響しました。(神秘主義や精神主義が自然科学と肩を並べ、また人類悪化と崩壊を懸念する文化的な悲観主義が起こった) 象徴主義は、現実を描写した「写実主義」や「自然主義」に反して誕生しました。一方、デカダンスは自然主義に端を発しており、主に退廃や倒錯描写に注目しました。この二つの思想は20世紀初頭には綯い交ぜになり、違った角度から心理や世界観を見出したのです。象徴主義は、本質の根源の表現を目指した芸術的な観念であり、デカダンスは現実の本質を描出します。この二つが結合し、現実の本質が伝わってゆく過程を表現しました。象徴主義の芸術は対象内容を象徴的に表現し、人間の情緒内容や観念を暗示的、形象的に表わす事です。 フィンランドにおいて、「鳥」や「白鳥」、「沼」は象徴主義に特徴的な要素となりました。一方、デカダンスは現実の頽廃性や唯美性、耽美性、また倒錯的世界を描出しました。文学上では俗世と黄泉、または善悪が混在するようになりました。現実が平凡さを帯びてくると、象徴主義は夢や新しい美や新しいイデアを与えました。プラトンの観念、イデアが事物の中心であるという思想が浮上してきました。つまり人間は認識上の立場から事物の本質を探求しなければならないのです。これはロマン主義への郷愁またはノスタルジーでした。典型的な象徴主義作家は、イデアが遠のく俗世に生きており、芸術作品を通してのみ観念世界に到達できるのだとしています。芸術作品は失われたイデアの補填となったのです。 フィンランド文学では、オット・マンニネンの作品に破滅感や失望、郷愁などの象徴主義的な要素が生きています。特に損失や渇望は前面に出ており、一詩「白鳥たち」の白鳥は憧憬の象徴です。象徴主義的な芸術上で夢や目標を到達できたとしても、現実 では常に手探りの状態なのです。
象徴主義とデカダンスは、近代社会で深まるナルシズムを先見していのです。ナルシシズムとは自己の分析であり、全てを自己中心に見ることです。ニーチェの超人思想もデカダンスに影響を及ぼしています。超人思想とは道徳や宗教、社会組織を否定し、自己の可能性を極限まで実現した理想の人間のことです。ニーチェの虚無的傾向は世界崩壊に呼応するデカダンスを魅了しました。 この思潮の中、フィンランドでは絵画や文学、音楽などの様々な芸術が互恵的に影響しあいました。『黄泉の白鳥』(1900)を書いた詩人エイノ・レイノは、フィンランドでも幅広く活躍した最初の象徴主義者です。また、ヴォルテル・キルピは『バテシバ』(1900)で象徴主義散文の地盤を築きました。キルピはバテシバの姿を通して現代的な愛の物語、すなわち愛を通して変容する自我を語っています。また、心境の変化に伴って色調の変化を取り入れています。人生は赤い花のように、そして青い空のように見えることから、赤や青は愛と希望を表しています。しかしながら、青は次第に薄れ、赤には黒が混在してくる。至福を願う愛が「圧し掛かる赤いマント」になり、その下敷きとなったダビデは、憔悴する自分を感じます。嫉妬に苦しんだダビデは、聖書とは違ってバテシバの夫を殺害し、至福は手の届かない所へ行ってしまう。そして迫ってくるのは、哀愁の黒と灰色です。 このような自我の過程を表現したキルピの『バテシバ』は、現代主義を予兆する作品となりました。内省は、外界から自我の感情や観念世界の反射物を形成し、また自我は多面的で多様的に映し出されるようになりました。『バテシバ』に描かれた自我の過程は、20世紀初頭フィンランド文学に典型的な現象で、レフトネンの初期作品、リンナンコスキの『真紅の花の歌』などに見受けられます。 レフトネンの『マタレーナ』(1905)はデカダン作品の典型です。「森の神秘」と呼ばれる妖婦が登場しますが、人生の残酷美に対して妖婦は象徴主義的な立場を表現するものです。芸術家はこの女性をマゾ的に崇拝します。作品には、背徳行為や狂人、破壊や社会から疎まれた見捨てられし者、自己中心や美、そして官能などといったデカダンスの中心的なモチーフが見られます。
悪魔的な女性が存在するならば、悪魔的な男性も考えられます。それは自発的行為の男性で、強靭な意志と情熱を兼ね備えていす。フィンランド文学では、それはある種のドン・ファン的な人物で、愛を享受し自己愛に耽溺した色事男です。ヨハンネス・リンナンコスキの『真紅の花の歌』にドン・ファン的好色男が登場します。この作品にはまた、デカダンスの影響も垣間見られます 。 フィンランド文学史上、デカダンスは1910年代まで興隆しますが、象徴主義とデカダンス現象は次第に衰退の色を見せ始め、社会に根差した国民的環境を回顧し始めました。カール・グルンが言うように、『真紅の花の歌』は、女性的な文化におけるフィンランド男性の危機を物語っています。伝統的なフィンランド人の男性像への帰還は、昔の理想的な農民社会への帰還とは態を異にしています。作品では、本能と理性が対照的に並び、主人公のオラヴィは崩壊よりも改善を目指します。最終的には、強靭な女性の力で社会に帰還し、まともな男になります。つまりデカダンスから逸脱しようと努めるのです。 デカダンスの宿命的な女性は男を魅了し破壊に導きつつ、自己も滅ぼす「魔性の女」です。この魔性の女に女流作家 L.オネルヴァも筆を走らせました。『ミルディア』では女性として存在する意義を探求していいます。
この作品は、象徴主義散文の最高峰であると同時に最終地点でもありました。もちろん、フィンランド文学上には他にもデカダン派作家がいます。レフトネンは地方を中心にデカダン的歓楽を描きましたが、オネルヴァは知識階級の都市生活を描写することでデカダンスの次元の拡大を図りました。しかしながら、『ミルディア』では自己探索のみに満足できず、デカダンスの枠から逸脱したのです。男性の視線の存在は、自己陶酔の強調であって、男性がナルシシズムの鏡となりました。『ミルディア』に登場するロルフ・タンネは自己愛、もしくはデカダン的な傾向をミルディアに培わせる男です。ロルフは20世紀当初に典型的な頽廃傾向者でです。
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