【抜粋訳: p.20, p.43, p.55 】
フィンランドで最初の列車事故
ぼくの彼女のおばあさんは、フィンランドで最初に起こった列車事故の写真を寝室に置いていた。おばあさんのところには、ぼくたちは足繁く通っていて、台所でくつろいだりアパートの庭を眺めたりしていた。居間に座ったことはない。そこには、ソファと飾り気のない壁があるだけだった。寝室には一度だけ足を踏み入れた。写真はベッドの上に置かれてあった。蒸気機関車が線路から逸れて横たわり、その周りを男たちが群がっていた。おばあさんは物忘れがひどくなっていた。切り抜きの隅から、ちょうどおばあさんの顔が見える。もし、一日でも、半日でも、一時間でも、ぼくがおばあさんと一緒に過ごすことになったら、なにをしたらいいのか考えてみた。春、おばあさんはベッドから落下して、夏、逝ってしまった。ぼくたちは再び家を訪れて、居間に座った。寝室をちらりと見ると、フィンランドで最初の列車事故の写真が以前と同じベッドの上に置いてあった。足を広げて腰に手を当てた男たちが機関車を取り囲んでいる。眼前の光景に納得できないような目でじっと見ながら。
1985年 サロにて
心臓
太陽が知らぬ間に昇っていて、ブラインドの隙間から光が差し込んでいた。助産婦に名札を手渡された。そこには、生まれたばかりの赤ん坊の体重と身長が書かれてあった。名札の下端には、女の子 男の子 という文字が印刷されていて、男の子にハートマークがつけられてあった。その名札は小箱の引出しにしまっている。ペンや時刻表を探すときはしょっちゅう目にするし、妻や息子がいないときには、名札を取り出して注意深く眺めることがある。ボールペンの頼りない筆跡、おぼつかない手でぐるりと囲んだハートの形を。
1996年 タンミサーリにて
唾をつける瞬間
ページをめくったり、書類の束から一枚抜いたりするとき、指を舐める人は大勢いる。その動きは、茂みの柵からスッと飛び立つスズメのように一瞬だ。手が舌先へはらりと飛び立つと、そこからページの端へと舞い戻る。新聞を読んでいる人のなかには、とてもゆっくりした動きで指を持ち上げる人もいる。その視線の先は見開きページに集中し、口は半開きで、指は考え深げに舌へと旅を始める。皮膚がしょっぱく感じれば、舌が記憶する。まるで牛乳を注いだグラスが視界の隅からぼやけていくように、感覚が意識の水面下でぼんやりと機能する。プラハのナロドニ通り沿いにあるケーキ屋の白衣の店員は、ケーキ箱に手を伸ばすたびに指を舐めていた。銀行員とか回数券をチェックするバスの運転手というのは、一日に何十回と指を舐めることだろう。
1998年 ヴァークスュにて
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