【抜粋訳: pp.121-123 】
かくれんぼうのフィンランド
かくれんぼうのフィンランドは不毛で乏しい。脆い大地、沼地、枯れた荒れ野が避難場所を提供してくれる。それから渺々たる湖と野原。フィンランド北部の剥き出しの山肌、氷河期時代の岩上、伐採跡地、湿地帯に続く敷板をゆく。予備の開墾地に生えた柳林が、しばらくは春めいた平面的な輝きを放ってくれるものの、すぐに漠々とした平地へと落ちてしまう。
世界の山脈や密林には、大勢の陸軍やまだ知られていない哺乳類が棲みついている。フィンランドの峡谷やコウモリは夜のかくれんぼうの一つだ。極東地方の桃源郷、山上の凹地、氷河期が残した丸い谷。その谷底から夏至に雪の塊が見つかるかもしれない。
パワフルな人は境遇に屈しない。氷河期時代の名残の氷塊が溶けてできた窪みが深ければ、そこでだって、小さな有機組織体や石器時代の甲殻類や冴えない色の蝶が棲んでいるかもしれない。急斜面の草原に緑色の防水シートを広げれば、その下に住処らしきものができる。そこには声も届かないし、行楽者も迷い込んだりしない。
フィンランドでも神秘的な隠れ場所の風景は、原っぱが広がる木立だ。集約農業地として利用されずに、朽ちた木々が青々と茂ったシダに紛れて横たわる。長い日脚が苔生した大地に降り注ぐ。木立の黄昏と教会の冷涼感から輝きが隅々まで行き渡り、まるで生まれ変わって病院の玄関に立っているみたいだ。
多くを語らないフィンランドの景色が胸を突く。スウェーデンの旅客船の前菜テーブルが食器の音で賑わう中、僕らは場違いな客のように座っている。窓の向こうに現実世界がある。あそこの群島の不毛な岩島に待っているものは、真価と心との調和だ。あそこで僕らは慎ましく生きていく。ベリーとスズキで生活し、虚栄心という罪を贖いたい。
フィンランド人はいつだって憂いを抱き、土曜の薄暮を胸に抱いている。小家屋の窓は開け放たれ、現実が待ち受ける。そういう状況は嬉しくはないけれど、嘆かわしいわけでもない。心にカウボーイが盛られた感じで、くるりと背を向けて歩き出したい気持ちに駆られる。それは、魂が住んでいる地平線の青い森からくる感情なのだ。
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