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Kärpäsen koulu    原書名:  Kärpäsen koulu
 (蠅の学校)
 作者名:  Mari Mörö, 1963~
 マリ・モロ
 出版社 / 年:  WSOY / 2005
 ページ数:  189
 ISBN:  9510309516
 分類:  小説
 備考:

【要約】

母を亡くし、病床の父を抱え、離婚危機に陥り、心療内科へ通院する一途な男性コヨ。いくつもの逆境を抱えた男性が執着したのは、生前の父がオークションで競り落としてしまったアンティークの肘掛け椅子だった。母のお気に入りでもあった形見の椅子は、ひょんなことから親戚の若手芸術家マルユリの手にわたってしまうと、夥しい数の蠅の死骸を纏った芸術作品へと変貌してしまった。

蠅の椅子は、ガラスのショーケースに入れられてヘルシンキ中央駅ホールに展示されていた。しだいに衆目を集めるようになったのも、ヘルシンキで会談していたEU諸国の文化大臣たちの称賛を得たからだ。「革新的なフィンランド」を表現したとして、増築される国会議事堂に設置しようという声が国内でにわかに高まるほどだ。

物語は推理小説のように幕を開ける。警察署で事情調書を受けるコヨ。なぜ蠅の椅子に火をつけてしまったのか、なぜ作品を破壊するという行為に及んでしまったのか、いくつもの理由がさまざまな視点から語られ、強迫観念にも似た語り手の正当な行為へと収束してゆく。

さらには、蠅の椅子に代表される現代の芸術作品の実態をありありと描写しつつ、揺らぐ純正な芸術の基準を問うている。芸術の意義とはなんなのか。芸術の公共性や道徳性とはなんなのか。レーナ・クルーンの『ペレート・ムンドゥス』(1998, 邦訳2005)に登場する蠅のパフォーマンスも、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』(1954)も、蠅に悪しき心を反映させている。同じように、モロの蠅の椅子も芸術作品にあるべき道徳性を破壊するシンボルとなっているのかもしれない。

モロの生きたユーモラスな言葉は、つねに時事的な現象を巧みに風刺してくれる。主観を抑えて淡々と出来事を描写することで、芸術や社会が患っている現代の問題点がまざまざと浮き彫りになった作品だ。

【抜粋訳:pp.74-94】

カウンセリングは家族療法から始まった。妻のテルヒが望んだからだ。でも、無駄足だった。男嫌いの女性カウンセラーなんかに全幅の信頼はおけない。それ以来、セラピーセッションに誘われても同意しなかった。それでもテルヒとこれからもやっていきたいという気持ちがあったし、彼女の希望でウケという男性のカウンセリングを受けることになった。病気休暇はだいたい半年をみているけれど、半年後に同じ職場に戻れるとは思っていない。

ナラティブ・セラピーは、じぶんがなんであって、どういうことが結果として起こるのか、そんな答えを出してくれる解決志向的なセラピーだ。物事をいろいろと語ることにぼくが同意するなら、もう一度やり直してみてもいいとテルヒが約束した。語る?物事を?いろいろと物事を表現するように、その人の問題を外在化すると言っていた。外在化なんて味気ない言葉なんかより、もっと別の用語を考えてもいいのに。でも、同じ言葉をウケも使っていた。

(・・・)

「物語療法だから、物語と問題から逸れないようにしようか」

「わかった」

「向き合う姿勢が大事だよ。それで行き詰まる場合もあるからね。クライアントの望む方向に物事を進めていこう」

「それでいいよ」

(・・・)

毛布をかぶっていてもブンブンと音がする。枕のなかからもザワザワと大きな羽音が立つ。ベランダと部屋を行ったり来たりしても、摩擦音は止むことがなく、とうとうぼくは毛布をベランダに投げてしまった。ゴミ袋からシーツを取りだして、死体の防腐保存処理を待っているみたいに寝転がった。何回か、外に投げだした枕と毛布を中に入れてみたりしたけれど、音はずっと鳴っていた。

(・・・)

「ぼくは椅子と関係があるんだ」

「えっ?」

「椅子と関係をもってるんだ」

「椅子はなにかのたとえかい?もうすこし詰めてみようか、どんな物語とつながりがあるんだろう?椅子はだれのことかな?」

「椅子は椅子だよ、芸術作品でもなんでもない」

「そのまま続けて」

文/訳 末延弘子 マリ・モロ著『蠅の学校』(2005)より


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