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Nenäpäivä    原書名:  Nenäpäivä
 (赤い鼻)
 作者名:  Mikko Rimminen, 1975~
 ミッコ・リンミネン
 出版社 / 年:  Teos / 2010
 ページ数:  339
 ISBN:  9789518513271
 分類:  小説
 備考:  2010年度フィンランディア賞受賞作

【要約】

ヘルシンキに息子と二人で暮らしている中年女性のイルマは、ある日、屋内マーケットで「モンステラ、譲ります」という掲示板を目にした。譲り主が住んでいる都心からほど遠いケラヴァに向かうものの、家を間違えてしまう。ところが、間違えて訪ねた家が心地よく、思わず世帯調査員だと偽って、人恋しさに各戸を幾度となく訪ねるようになる。

訪問先はケラヴァの集合住宅だった。隣近所同士の付き合いはない。最初の訪問先はヨキパルティオだ。専業主婦のイリヤは解雇された夫の不機嫌な態度に悩んでいる。向かいのヤルカネンは、小さな子どもがいる若い夫婦で近所付き合いを好まない。前管理人の部屋に住むヴィルタネンは酒とジャンクフードに溺れ、ハティラは妻に先立たれ娘には冷遇され介護サービスを受けていた。

いつかは正体がばれてしまうと知りつつも、イルマはケラヴァの住人の心の襞に触れていく。ケラヴァの住人もイルマを通して繋がってゆく。迅速な現代社会から振り落とされてゆく人間の、孤独の奥底に残る温もりを、リンミネンは他者に連なる強さに変える。

【抜粋訳: pp. 7-12】

 てっきり彼女の名前もイルマだと思った。同名だとややこしいことになりそうだという思いが、一瞬、脳裏をよぎっておかしかったけれど、聞きまちがいだった。彼女はイリヤで、私がイルマ。アルヤには、まだこの時点では知り合っていない。ただ、同名でなくとも、ややこしいことになってしまった。
 イリヤは今、目の前に座り、笑みを浮かべている。台所には白樺の節でできた壁時計がかかっている。こういう感じはくつろいでいて気持ちがいい。
 食卓にはコーヒーと菓子パンがある。いわゆるどこにでも売られている、いつまでたってもしっとりした菓子パンだ。いったいどんなものを入れたらこんなに日持ちがするのだろう。白樺の節の壁時計はイリヤの頭上にあって、不安定なリズムを刻んでいる。かなりのコレクションだ。十数個はあるだろうか。カチカチと刻む音を聞きながら、庭の鮮やかな秋色に燃えるカエデをしばらく見ていた。これだけ時計があれば、毎日の手入れは大変だろう。毎日のように秒針を一定に調整しなければならないわけだが、いやになったりしないのだろうか。愛想を尽かす日はいつ来るのか。そんな時計にまつわる心配を、カエデを眺めている間は忘れていた。
 時計のことはさておき、感じのいい家だった。ヘルシンキから二〇キロ余り北上にあるケラヴァにイリヤ・ヨキパルティオの家がある。イリヤのような専業主婦にとっては寂しくてつまらない朝なのだろう。 帰りのメモを読み返すと、夫は隣の町コルソの自動車整備所で働き、中学生の娘と大学生になる息子がいるようだった。
 とにかく、居心地のいい家だった。白樺の節の壁時計、こまごまとした雑多な置き物、木製のチューリップ、ガラスでできた象、エッフェル塔の形をしたコニャック瓶、二枚貝、つるりとした丸い石、毎日の話し相手になっていそうな手入れの行き届いた観葉植物。きどった感じはなく、贅沢しているわけでもない。普通の人がくつろいだ暮らしを手に入れたような家だった。どこも片づいていて、いい匂いがした。どこかの家のあやしい強烈な洗剤の匂いではなく、清潔な匂いだ。部屋も、四人家族にはちょうどいい広さだった。
 感じがよかったのは家だけじゃない。イリヤもそうだった。ひっきりなしにしゃべる必要はなく、静かな時間をわかちあえた。庭に目をやると、紅葉した木の下でつなぎ服の子どもたちが戯れている。その様子は、まるで自然番組に出てくるウミヘビのようで、そこから自然と私たちの間に会話が生まれた。ああ、そうだったわ。あなたはどう?覚えてる?ええ、もちろん。ああいう時があったのよねえ。ほんと。でも、もうこりごり。そうね。あの時代は。うんうん。
「悩みってつきないのよね」
「そうね」
 しっかりと頷いてあげればよかったのかもしれない。でも、話の内容よりもこうやってコーヒーを飲みながら話をすることのほうが、今、この状況では大事なことのように感じた。こんな状況になったのも、うっかり家を間違えたのが事の発端だった。ケラヴァに来たそもそもの理由は、観葉植物のモンステラを受け取るためだった。譲り手はどうやら引っ越しするらしい。そんなことが、ヘルシンキのハカニエミ屋内マーケットの掲示板に貼られていた。いったいどうしてわざわざこんなところに貼ってあるのだろう。それにどうしてまた、イルマ自身もケラヴァまで取りに来てしまったのか。ただ、譲ってもらえるということだけで来てしまった。そして結果がこれだ。マンションは間違ってなさそうだが、いずれにしろ、棟を間違えたまま玄関チャイムを鳴らしてしまったというわけだ。ヨキパルティオ。それらしい名前のように感じたし、モンステラの気配はないものの、こうやってコーヒーを飲みながら向きあっていると、これで良かったような気がした。
 この居心地の良さの理由は、自分でもわからない。イリヤとお茶をしながらおしゃべりをすること。白樺の節の壁時計の針音すらも気にならないくらい、おしゃべりに夢中になっている。あれこれしゃべりながら、あの質問をすることになってしまったのだ。息子にも、私は口がうまい、といつも言われていた。  こんなふうに押しかけたからには何かしらの口実が必要だった。家を間違えたとは言いにくい。そんなわけで、ふいに思いついたのだ。下を向きながら手帳の後ろのメモを開いて、統計調査や市場がどうのこうのとぼそぼそつぶやいてみた。ふいに顔をあげると、コーヒーのおかわりを注いでいたイリヤがいきなりこちらを振り返り、じっとこちらを見ていた。にっこりと優しく笑いかけ、私はまっかになってしまった。どうしたらいいのかわからなかったので、換気扇の上に下がっているアラビア製陶の飾り皿に目をやった。しかし、こんな油がたまるところに飾っていたら、一日に二度はきれいに拭くはめになるだろう。こんなことも考えてほてりを抑えようと思ったが、あまり効果はなかった。そんなわけで、窓の外を指さしてこう言った。
「ちょっと、あの子、砂を食べてるわ!」
 そのまま玄関にむかい、初日から肝心の書類を家か事務所かどこかに忘れてきてしまったことを詫びた。  落ち着いた様子で玄関が閉まった。イリヤはまたこれからコーヒーを飲むだろう。イリヤが注いでくれたコーヒーを持つ私の手は震えていた。コーヒーを飲むよりほかどうにもしようがなかった。申し訳なく思いながらもおかしな高揚感にふらふらしながら、オペラ座の怪人のように階段を下りた。一階の踊り場でしばらく立ちどまって、秋の空気に冷えたガラス窓に頭をもたせかけた。外の駐車場は色鮮やかに染まっている。
「大丈夫ですか?」
 ふいに後ろの方で声がした。
「もちろん、大丈夫よ」私は振り返らずに返事をした。何か良いことがあるように願いをこめて強く言っただけなのだが、気が強いおばさんのように聞こえた。さっき下を見たときは誰もいなかったこともあって、警戒しながら振り返ると、中学生くらいだろうか、赤みがかったぶつぶつ顔の少年が立っていた。年配の人には親切にするように、きっと親にしつこいくらいにしつけられたのだろう。
「ああ、それなら」少年はさっと階段を昇っていった。
「若いのに敬語ができて、きちんとしてるわ!」私は少年に呼びかけるようにわざと大きな声で言った。これもまた場違いな感じに響いて、自分の出した大声にびくっとした。とにかく急いで外に出た。子どもの頃にいたずらした時のようなときめきと動揺に、手や足や歯にいたるまで、どこもかしこもむずがゆかった。
 もう日は高く、まともに太陽をうけ、一瞬、何も見えなくなった。バス停に着くまでに、二回、挨拶をした。一回目は松の木に、もう一回は見しらぬ人に。秋が胸のなかで青くはじけるように騒いでいた。

文/訳 末延弘子 ミッコ・リンミネン著『赤い鼻』(2010)より


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