KIRJOJEN PUUTARHA
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2011栃木子どもの本連続講座

2011栃木子どもの本連続講座「子どもに読書のよろこびを」北欧の子どもの本(7月16日)

末延弘子

複数からの出発

私は本が好きです。本を読んでいると、対話が生まれるからでしょうか。子どものときは、もちろんそんなふうに難しく考えていませんでした。ただ、読んでいると、一人ではないと感じていました。私は一人っ子でしたから、読書は喜びの時間でした。

ウィーン生まれのユダヤ人宗教哲学者マルティン・ブーバー(1878-1965)は『我と汝』という著書で、私はあなたとの関係のなかで私になる、と言いました。私にとって「あなた」とは、本であり、音楽であり、花鳥風月であり、山川草木であり、愛犬であり、両親であり、出会いです。誰かの眼差しのなかに私は存在しています。見るのではなく見られるということ。生きるのではなく生かされているということ。文化人類学者の岩田慶治(1922-)さんは、道元についての著作で仏陀と二人連れとお書きになりましたが、お遍路さんの同行二人のように、私はいつだって誰かとあるいは何かとともに在ると思っています。

そんな複数の眼差しをフィンランド文学に感じます。私が日本人だからかもしれませんが、そう思う所以については、後半のお話(「耳を澄まして聞こえたもの」)で触れたいと思います。とくに、トーベ・ヤンソン(Tove Jansson, 1914-2001)、レーナ・クルーン(Leena Krohn, 1947-)、ハンネレ・フオヴィ(Hannele Huovi, 1949-)、ノポラ姉妹(Sinikka Nopola シニッカ1953-、Tiina Nopola ティーナ1955-)の作品には、たくさんの視点が顕著です。フィンランドは地理的には西洋にありながら、存在学的には東洋にあるのではないかと思うほどです。

そもそもフィンランド語は、ロシアを南北に縦断し、ヨーロッパとアジアを分かつウラル山脈で生まれました。フィンランド語をのぞく北欧諸語(スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、アイスランド)はインド・ヨーロッパ語に属しますが、フィンランド語はウラル語です。母音が豊かで、文法的な性がなく、彼も彼女も同じ一つの代名詞です。日本語の、から・より・で・が、といった意味関係や動向を表す格助詞にあたる格語尾があり、単語そのものが変わります。これを格変化と言います。その変化は、まるで毛虫から蝶になるような飛躍があります。でも、その蝶は一匹で飛ぶのではなく、蝶を取り巻く環境とともに飛び立ちます。つまり、蝶が何かの格に変化すると、蝶を修飾していた「白い」や「美しい」といった形容詞も同じ格になるということです。今までの形を捨てて蝶に合わせる、そんな思いやりのある言語です。ここで、フィンランド語をすこし流してみますので、聞いてみてください。小さな赤ちゃんの大きな世界を歌うハンネレ・フオヴィの児童詩『あかちゃんの秤』から、二節をご紹介します。(会場にCDが流れる)

あかちゃんの秤

あかちゃんは秤をもっていて、
それで世界をはかってる
じぶんはなにをしたいのか
じぶんはなにをしないのか

かたほうのカップにお星さま
かたほうのカップにお月さま
さあ、世界に旅立とう


まつげの下に

まつげの下に
ふるえる宇宙
光にうかぶ
あかちゃんの秘密
それはだれにもはかれない

(ハンネレ・フオヴィ著/末延弘子 訳『あかちゃんの秤』(1995)より)

子どもの本という枠を超えて愛読されるフィンランドの文学作品に「ムーミン」(1945-1970)があります。「ムーミン」がどこの国のものなのかご存じなくても、お話は知っているという方は多いと思います。フィンランド文学のなかでももっとも翻訳されている作品の一つです。作者は、スウェーデン系フィンランド人のトーベ・ヤンソンです。ムーミンらしきキャラクターは、トーベがイラストレーターとして活躍していた『ガルム』という政治風刺雑誌にすでに現れていました。イラストに小さく描かれたムーミンらしき生き物を、トーベはサイン代わりに描いていました。このことは、フィンランドのタンペレ市立ムーミン谷博物館のミュージアム・エデュケーター、ミルヤ・キヴィさんが、著書『ようこそ!ムーミン谷へ』で触れています。この生き物が現れ始めた1940年代は、フィンランドはソ連と戦争中(冬戦争1939-40、継続戦争1941-44)でした。混沌と不安にトーベはファンタジーという方法で向き合い、そうして誕生したのがムーミン作品でした。

ムーミン作品にはおよそ60ものキャラクターが登場します。ひと言で言いますと、愛らしくて変な生き物たちです。一見すると、もののけのようですが人間くさくて、親近感が湧きます。おっとりしたムーミン、優しいママ、冒険好きなパパ、自由なスナフキン、神経質なフィリフィヨンカ、歯に衣着せぬミィ、几帳面なヘムレンさん、ひがみっぽい哲学者、気弱なスニフ。えたいの知れないニョロニョロやモランもいます。弱い者も強い者も、やっかいなものも気味の悪い者も、みんな一緒にムーミン谷に住んでいます。彗星や洪水や嵐といった予測のつかない不安もあります。そんな自然の脅威もいっぷう変わった住人たちも、みんなそのままムーミン谷は受け入れます。

この受け入れる力こそが、ファンタジーにはあると思います。ファンタジーあるいは想像力と言ってもいいと思うのですが、これはあらゆる行為に先だつものです。想像力の欠如は、ときに道徳を犯しかねません。それが暴力や戦争に発展することもあります。後ほどご紹介するフィンランドの作家であり哲学者であるレーナ・クルーンは、想像力は現実を理解するためのものであり、様々な生き方の選択肢を示してくれるものだと言っています。また、心理学者の河合隼雄(1928-2007)さんは、現実とは何かを喚起するものであり、挑戦であると言いました。そして私は、想像力とは思いやりだと思っています。「ムーミン」の多数のキャラクターにしても、最終巻『ムーミン谷の十一月』で主役級のムーミン一家が登場しないことにしても、存在の仕方は一つではなく、たくさんあっていいのだと言っているように思えました。このように多様な在り方を受け入れることは、自由とは何かを考えるうえでとても大切なことです。

あるインタビューで、トーベはムーミンたちのことを「存在するもの」と答えました。こうだと言い当てず、架空の人物だとも言いきらず、それなのにリアリティがありました。存在の仕方はいろいろとあるけれど、それらは決して他人事ではないのだ、と思いました。トーベのようにファンタジーという方法で、存在することの意味と可能性を問い続ける作家にレーナ・クルーンがいます。絵本、児童書、小説、エッセーと幅広く活躍し、彼女の作品はアメリカ、ロシア、ヨーロッパを中心に翻訳され、受賞作品は多数にのぼります。

ある読者の方が、クルーンの作品についてお手紙でこんなふうに描写してくれました。「最先端の現代科学や哲学、心理学が織りこまれた近未来小説で、紡ぎ出される異界のような日常はぞっとするほどリアルで現代を予兆している」と。

なんだか難しく聞こえますが、クルーンの作品には、子どもの純粋で明晰な視点があります。それを想像力と言うのだと思うのですが、無知を未知に変えてくれる失いたくないものの一つです。

最新作の『偽窓』では、アイソレーションタンクという、感覚を遮断するタンクに浮かぶ哲学者が登場します。そこで哲学者はカウンセリングを行うのですが、彼を訪ねてくるクライアントは、皆いっぷう変わっています。未来が見える夫人、暗所恐怖症、ニヒリストの歯医者、宇宙に触れた飛行士、バーチャル世界に溺れる娘。哲学者は、彼らにとっての現実に触れながら、果たして真実とはいったい何なのかを考えます。

七つの短編集『木々は八月に何をするのか』でも変わった人たちが登場します。嬉しくなると宙に浮く少女、影を持たない少年、この世界の言葉ではない言葉を話し、光よりも闇を愛するグリーンチャイルドと呼ばれる子どもたち、温室で熱帯の植物を育てる薬剤師、未知の生き物を追い続ける未確認生物学者。見えること、わかること、証明できることを前提としている現代にあって、クルーンは見ることの意味を問い直します。見えている世界だけが本当なのか、時間や空間は時計や物差しで一様に測れるものなのか、と。

ファーブルに捧げた代表作『タイナロン』は、昆虫の世界からあなた宛に28通の手紙が届きます。カミキリムシに案内されながら、物語の「私」は葬儀屋の埋葬虫や女王マルハナバチに会い、タイナロンの人々の変わった生活に驚き、そして戸惑います。とくに昆虫が幼虫から成虫へ変身を遂げる現象、メタモルフォーゼについて、「私」はこのように綴っています。

私たちも変わってゆきますが、それは遅々的なものです。何かしらの普遍性に順応してしまっていて、多かれ少なかれ安定した主体性を維持しています。ここでは違うのです。(・・・)隠遁生活にとじこもってしまう者もここにはいます。彼らは、身の置き所もないほど小さな部屋のような籠らしきもののなかで暮らしていて、誰とも会わないし、どこへ出ていこうともしない、食事をとることなどもってのほかです。けれども、睡眠はとりますし、あるいは起きてもいます。一時も休むことなく変化していき、以前の姿形を切り捨てていくのです。

(レーナ・クルーン著/末延弘子 訳『ウンブラ/タイナロン』(2002)より)

「私」にこだわらない昆虫たち。以前の姿にとらわれることなく更新する潔さ。クルーンの自然界への眼差しに、私は日本人として共感しました。春になると花が咲き、夏に青葉を広げ、秋に結実し、冬には枯れ落ち、そしてふたたび花になる。芋虫は、蝶になるため蛹になって、新しく生まれ変わる。そんな自然の営みを、私たちは生活の一部にしてきました。お守りやお札を年ごとに新しくしたり、衣替えをしたり、つねに繰り返して、現在化してきました。伊勢神宮の遷宮でご神体をうつすこともそうです。この遷宮について、随筆家の白洲正子(1910-1998)さんはお葬式と言いましたが、力を更新してゆくためには必要な手続きなのだと思います。生け花もそうです。華道家の中川幸夫さんは、花は「生ける」のではなく「祀る」と言いました。命の尖端を切って入れた立て花は、御柱のようで、依り代のように見えます。タイナロンという名前も、そもそもギリシャ神話で黄泉の国の入り口のある場所を意味します。タイナロンへの旅は、お遍路さんや熊野詣でのように、再生への神聖な巡礼のように感じました。

いっぷう変わった人々を通して、クルーンは、美しく哲学的思索に富んだ言葉で、多様な解釈からなる世界にアプローチしました。物事というのは多面的です。たとえば円錐形は正面から見ると三角で、上から光を当てると円いように、ちょっと移動すれば見えなかったものが見えてきます。幕末の浮世絵師、歌川国芳(1798-1861)の寄せ絵に、『人かたまって人になる』や『みかけはこわいがとんだいい人だ』という作品があります。ぱっと見ると一人の人間の顔なのに、よく見るとたくさんの人間で構成されていて、お尻が鼻だったり、ふんどしが眉毛だったりします。グラフィックデザイナー、福田繁雄(1932-2009)さんのトリックアート「ネコとネズミ」は、横から見るとネズミで上から見るとネコが姿を現します。「潮風公園の日曜日の午後」は、ある角度からはピアニスト、ある角度からは後期印象派スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」が見えてきます。

明治の思想家で日本美術院の創設者であり、日本美術の概念に大きく寄与した岡倉天心(1863-1913)さんは、美の本質について、想像の働きで完成させるものだと言いました。このように、見えないものを見る力を引き出してくれるのが、想像力なのでしょう。

この想像力は、フィンランドの現代児童作家ハンネレ・フオヴィも語るところです。フオヴィは、児童詩、絵本、児童書、ヤングアダルトと幅広く手がけ、物語世界を繊細に、そして丹念に描きます。『羽根の鎖』という作品には、タカに両目を奪われて目が見えなくなった少女エレイサが登場します。視力を失ったエレイサは、目に見えないものもたくさんあって、それらすべてに意味があることに気づきます。目に見えないものは霧と同じで意味がないという友人のカラスに、エレイサは、霧は森にも出るけれど霧の中には木があると信じることが大事だと言います。

存在というのは、それがあると知っているかどうかではなく、そこにあると信じているかどうかだと、私は思います。信ずれば在る、ということを歌った金子みすゞ(1903-1930)さんの「星とたんぽぽ」をご紹介します。私は、みすゞさんの複数の視点に、クルーンを始めとしたフィンランドの作家たちの世界観をよく重ね合わせます。

「星とたんぽぽ」

青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

(金子みすゞ著『わたしと小鳥とすずと』(1984)より)

こんなふうに多様な在り方が分かち合う世界を、トーベは「すべてはとってもあいまい」とおしゃまさんに言わせ、クルーンは「わたしとはわたしたちである」と言い、フオヴィは「自由の哲学」と言いました。

フオヴィの幼年童話「大きなクマのタハマパー」では、「みんなちがって、みんないい」という世界がやさしく語られます。クマのタハマパー、ヘラジカのイーロ、リスのタンピ、ハリネズミのヴェイッコは、それぞれ体の大きさも形も違うけれど、友だちになります。でも、どうやって?たとえば、励ましたり、手を繋いだり、話を聞いてあげたり、頷いたりして、タハマパーと仲間たちは友だちになりました。

「ぼくたちは食べるものがそれぞれちがうね」タハマパーが言いました。
「でも友だち」タンピ、ヴェイッコ、イーロがそろって言いました。
「遊びかたもちがう」
「でも友だち」
「うたう歌もちがう」
「でも友だち」
「一人は角があって、一人は歯がある」
「でも、友だち!」
「一人は針があって、一人は毛がある」
「でも、友だち!」
「かたい手もあれば、かたくない手もある」
「でも、友だち!」
 タンピ、ヴェイッコ、イーロは、ぴょんぴょんとびはねたり、おどったりしました。タハマパーは耳をぽりぽりかきながら、友だちってなんだろうと、まだ考えていました。そして、はっと気がつきました。
「いっしょにいるのが友だちなんだ」

(ハンネレ・フオヴィ著/末延弘子 訳『大きなクマのタハマパー 友だちになるのまき』(2011)より)

こんなふうに相手を思いやることで見えてくるものがあります。それは自分自身です。自分の背中は自分で見ることができないように、私は自分で自分を説明できません。ブーバーの言う「あなた」がいてこそ、私は明らかになります。動物に取材した物語にすぐれた作家に、マリア・ヴオリオ(Maria Vuorio, 1954-)というフィンランドの児童作家がいます。ヴオリオの代表作『リスとツバメ』は、おたがいを思いやり、おたがいの温かい眼差しに感謝するお話です。南に渡れなかったツバメをリスは家に連れてきて、一緒にフィンランドの冬を乗りこえます。リスとツバメですから、話す言葉も食べる物も違います。でも、通じあおうと二人は努力します。リスはツバメのために鳥の言葉を覚えたり、エサを探したりします。ツバメは、自分のエサ探しのために怪我を負ったリスをかいがいしく介抱したり、歌を歌ったりします。見た目は変えられないけれど、こんなふうに心はいかようにも変えられます。

「ストップ。ここからは、どっちにもわかることばで話すほうがいいわ」ツバメがいいました。
「ぼくもそう思う。きみとぼくは、とてもちがっているもんね」リスは、ツバメのことをわかろうとがんばっていたことを思い出しました。
「ちがうの!?」ツバメはびっくりして、リスのことばにきずつきました。
 鳥というのは、ちょっとしたことでもびくっとするのです。ツバメは、リスが自分の友だちではなくなったと思ったのです。木の実をせっせと割ったり、床まで掃除したり、スプーンでレンゲ蜜を飲ませたりしたのも、リスを思ってやったことでした。(・・・)
「これでもがんばったんだよ」ツバメが機嫌を悪くしてそっぽをむいたので、リスは申し訳なさそうにつぶやきました。ツバメのことばをとうとうおぼえられなかったことを、リスも残念に思っていました。
「わたしを追いだすの?今すぐに?」ツバメはあまりのショックでくらくらしました。(・・・)
「そんなつもりでいったんじゃないよ。ぼくのいい方がまずかったのかもしれない(・・・)きみが旅立ってしまう日が来ることはわかっていても、ぼくはぜったいにきみを追いだしたりしないよ、ぜったいに」リスはのどをつまらせながらそっといいました。
 ツバメはリスの胸に泣きくずれました。
「ぜったいにここからでていかないわ!」
「それはだめだよ。夏が来たら、ぼくはきみに飛びたってほしい。ぼくたちは、これからそれぞれ結婚して、しあわせにくらすんだから。きみはツバメと、ぼくはリスと。そうなるはずなんだ」リスは、涙をぬぐいました。
「わたしにはリスしかいないのに」ツバメは、うっうっと泣きながらいいました。
 リスはツバメの紺色の背中をそっとなでました。
「今はいなくても、すぐにあらわれるよ。春が来れば、夏にはきっと」リスはそういったとたん、うれしいはずなのに、へんにさみしくなりました。
 どちらもなにもいわず、家のなかはリスが作った冬時計のカチカチという秒針の音が響いていました。
「ぼくのそばにいてくれてありがとう、ツバメ」
「こちらこそ、ありがとう!リスがいなかたら、わたしは死んでいたわ!」
 ツバメは翼をリスの首にまわして抱きつきました。
「いえいえ」リスははずかしそうにいいました。

(マリア・ヴオリオ著/末延弘子 訳『リスとツバメ』(2010)より)

こんな複数の眼差しがフィンランド文学にはあります。そして、実際に二人から出発したフィンランドの人気児童作家がいます。シニッカ・ノポラとティーナ・ノポラの姉妹です。ノポラ姉妹の代表作は「ヘイナとトッスの物語」シリーズ(1989-)と「リストとゆかいなラウハおばさん」シリーズ(1997-)です。いずれも十数年以上読み継がれた人気児童書で、本国では舞台や映画にもなりました。

ヘイナとトッスの物語は、小学生の姉妹、しっかり者のヘイナとおてんばなトッスが、かしましい隣人たちと繰り広げる冒険物語です。リストとゆかいなラウハおばさんも、ラップ好きの男の子リストとおっちょこちょいの電話のセールスレディのラウハおばさんが、型破りな隣人たちと騒動を巻き起こす笑いの絶えない物語です。湖でロビンソンさながらの漂流体験をしたり、セールス商品の買い付け先で警察に捕まったりと事件に事欠きません。どんな事件も勘違いから始まって、予測のつかない展開にはらはらしますが、深刻さからくる緊張感ではなく、次はどんなズッコケが待っているのだろうという期待からくるものです。どのキャラクターもおもしろいくらいにかぶいていて、ユーモアも明るさも抜群です。いずれの作品も、ノポラ姉妹は椅子を並べて同時に書いているそうです。だからこそ対話がすぐれて多く、漫才を読んでいるようなリアリティと即興性があります。

軽妙な対話から誤解が生まれてくる一章をご紹介します。「リストとゆかいなラウハおばさん」シリーズ第五巻『恋のライバルあらわる』の冒頭、リストが住むアパートの向かいのマンションに引っ越してきた男の子クッレルボとのやりとりです。

「リスト!ちょっときて」ラウハおばさんがリストをよびました。
 ラウハおばさんは、むかいのマンションの一階のベランダに立っているクッレルボを指さしました。クッレルボはくつ下を物干しラックにならべるようにほしています。
「きちんときれいにならべて、上手にほすわね。リスト、あの子、みたことある?」ラウハおばさんは感心しながらいいました。
 リストは首をふりました。
「あら、なかに入っていくわ・・・またでてきた。次の洗濯物を持ってきたのね」
 クッレルボは洗濯ひもに白いシャツと白いズボンを一着ずつほしました。
「リストと同い年くらいね。きっといいお友だちになれるわよ」
「友だちならもういるよ」 「ネッリでしょ。でも、この子は男の子よ」
「男の友だちはいらないよ」
「そんじょそこらの男の子じゃなさそうね。あの年にしては、とてもまじめそうだし。あら、本を読んでるわ。ぶあつい本ね」
 ラウハおばさんはベランダからぐいっとのりだして、声をかけました。
「こんにちは!」
 クッレルボはびっくりしてみあげました。リストは、さっとしゃがみました。
(気づかれないようにしなきゃ。じゃないと、ぼくまでラウハおばさんみたいに、なかよくなりたいって思われる)
「なんだかぶあつい本ね。何ページあるの?」ラウハおばさんは、大きな声でききました。
 クッレルボはパラパラとページをめくりました。
「八四一ページです」
「きいた、リスト!八〇〇ページ以上よ。すごいページ数ね。あらっ、リストったら、そんなところにしゃがんでなにしてるのよ。立ちあがったら」
「シーッ」
 ラウハおばさんはかまわずクッレルボによびかけました。
「ねえ、ここにあなたのお友だちになれそうな子がいるのよ。この子も読書が好きなの。リスト、立ちあがって。ほら、お友だちよ」
 リストは立ちあがって、まごまごしながらクッレルボをみました。
「あなたの名前は?」ラウハおばさんがききました。
 リストはラウハおばさんのスカートをぐいっと引っぱりました。
「やめてよ。みっともないよ」リストがそっといいました。
「みっともない?ごあいさつしてるだけよ。わたしはラウハ・ラッパーヤで、この子は甥っ子のリスト・ラッパーヤ」
「ぼくはクッレルボ・フォンニネンです」
「すごいわよ、リスト。近所に貴族が引っ越してきたわ」ラウハおばさんが、ささやきました。
「どういうこと?」
「"フォン"は貴族ってことよ」
「どの"フォン"?」
「名前の前に"フォン"ってついてたでしょ。クッレルボは"フォン"よ」
 ラウハおばさんはえしゃくして、クッレルボに軽く手をふりました。
「そんな雰囲気よね。品があるわ」
 そういうと、ラウハおばさんはクッレルボに声をかけました。
「家へいらして。午後五時のティータイムに」
「えっ?いままで五時にお茶なんか飲んだことないよ」
「ありがとうございます。ぼくはシルバーティーをいただきます」
「なんだそれ?」リストはつぶやきました。
「うちでもシルバーティーを飲むのよ」
「それって銀色?」リストはふしぎに思いました。
 ちょうどそのとき、ネッリ・ペルホネンがコーンアイスを手に門を曲がってきました。
「ネッリ!五時にお茶にいらっしゃい。クッレルボもくるのよ」ラウハおばさんがネッリを誘いました。
「クッレルボ!そこにいるのはネッリ・ペルホネンよ。ネッリはわたしたちの下の階に住んでるの。ネッリ、あの子はクッレルボ・フォン、フォン・・・、なんだったかしら?」
「フォンニネンです」クッレルボがこたえました。
「そうそう、そうだった。つまり"フォン"なのよ。クッレルボ・フォン・ニネンよ」
「ふうん」ネッリはクッレルボをしばらくみつめていました。
 ラウハおばさんは、掃除機をかけ、ななめになっている絵をまっすぐにかけ直し、観葉植物に霧吹きで水をかけました。そのあと、リストの部屋にいき、机にペンと消しゴムだけ残して、残りの荷物はぜんぶ箱にしまい、午後はずっと、こまめにはたらいていました。
「ちょっとさびしいわね。リスト、なにか飾るものはないの?」
「これはどう?」リストは大きな松ぼっくりをテーブルの上におきました。
「地味ね」
 そういうと、ラウハおばさんはレースナプキンをリビングから持ってきて、松ぼっくりの下にしきました。
「よくなったわ」
 ラウハおばさんは、リストのベッドが気になりだしました。
「ベッドがだらしないわね。もっときちんと整えて。クッレルボのベッドは、シワもたるみもないはずよ」
(なにがクッレルボだよ)
 ラウハおばさんがいってしまうと、リストはペッドにすわって、もこもこした布団を平らにしました。

(シニッカ・ノポラ&ティーナ・ノポラ著/末延弘子 訳『リストとゆかいなラウハおばさん5 恋のライバルあらわるの巻』(2009)より)

掛けあいを漫才にたとえましたが、漫才とは日本ではそもそも万歳のことで、正月に家々を訪ねてはお米やお金を請うて幸福を与える門付き芸のことです。これと同じような幸福感が、ノポラ姉妹の作品を読み終えた後に胸に温かく残ります。それはどうしてなのか?トーベやクルーンやフオヴィの作品のように、ノポラ姉妹の物語にもたくさんのキャラクターが登場します。物語は、みんなが関わりあいながら進展していくのですが、関わる人が多ければ多いほど誤解も生まれやすく、それゆえに滑稽さもあり恥ずかしさもあります。でも、それを煩わしいと思わずに積極的に踏みこんでゆくのがノポラ姉妹の作品の魅力です。誤解がもたらすのはおもしろさだけではなく、発展的な関係でもあります。発展は出会わずしてありませんから。勘違いの達人のラウハおばさんは、『恋のライバルあらわるの巻』で人間関係を「じんとくる」と言っていました。

ムーミンからクルーン、フオヴィ、ノポラ姉妹まで、たくさんの人物が登場するけれど、優位性はけっしてなく、誰もに光が当たり、誰もが主人公になった。もろもろの存在は繋がりあって、映しあって、私は関係性の中に立ち上がった。そして、その立ち上がり方がとても温かい。この人生肯定的なアプローチは、クルーンの「わたしとはわたしたちである」(『蜜蜂の館』(2007)より)という言葉に集約されると思います。私は、そんなフィンランド文学に日本人として共感を抱いています。その理由については、後半でお話させてください。


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