KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

もうひとつの太陽

八月の、レーナ・クルーンの庭にはいつも、天上の青が咲いている。

遅咲きの西洋朝顔の花弁は、射透すほどに青く、いびつな黒いひとつの種は、何輪もの美しい放射状の集散花序を生む。戴く花冠は、内に目映い黄色を抱き、まるで、青空のもうひとつの太陽のようだ。朝顔は、午後に凋んでしまうまで、ひたすらに太陽と番い、情報という種を残してゆく。散ってもまた集って、なにかに成りつづけ、そしてまた、なにかで在ろうとする姿は、とても熱的で胸を打つ。その熱いもうひとつの太陽に、マルハナバチがよく訪れる。情報を繋いでくれる、この愛しい媒介者は、いつだって花粉にまみれていた。

蜜蜂の館には、じつに多くの人びとが出入りする。

爬虫類学的同好会、ダールグレン症候群協会、喉歌合唱団、地方自治学振興会、ストーム同好会、水上オートバイチーム、スタインヴュルツェル家系協会、脱字者、失われた言葉の友、パラジスト、鼻声クラブ、キュニコス会、科学的世界像の犠牲者支援。新しい顔ぶれもいる。預言者、ドルフィーの母、ラッダイトクラブ、呼吸者、そして、移ろう現実クラブだ。館の地下は、フロイトに傾倒しているライ婦人主宰の劇団「心臓と肝臓」と、ハイブリッド型ロボットの「ハイブロット」と共生している失業中の神学者シーグベルトの住居があり、地上階には、ポルノショップ「快楽」がある。

館は、独立した群れを成す団体の集会所であり、さまざまな考えが交差する容れ物だ。

そうした多くの解釈を、聾唖の掃除パートの美しいラハヤが繋いでゆく。ラハヤが掃除に訪れるたびに、未知なる世界が開示され、わたしたちの認識を試し、その限界を問う。フィンランド語で「授かり物」を意味するラハヤは、まさに、新たな認識をわたしたちに授けてくれる喚起者のようだ。

誰もが、それぞれの心でさまざまな側面から世界を見る。じぶんのなかに見えたもの、じぶんにとって現れたもの、それは疑いなく、そのひとにとって真実だ。大切なのはきっと、見えたものの正否ではない。なぜそれが見えたのか、それはそのひとにとってどんな意味をもたらすのか、そして、見えたものは、いかにして他者と分かつことが可能なのか、なのだと思う。

朝顔の世界も、蜜蜂の館の世界も、わたしたちの世界も、時間の尺度も位相もちがうけれど、同じひとつの現実を分かちあっている。

現実は移ろう。

なぜなら、たしかに存在すると思っているものは空っぽだからだ。「ウツなるものはそこから何かが生成してくる(松岡正剛著『花鳥風月の科学』)」。確かに存在するものは心であって、想いであって、それらが繋がりあって、重なりあって、関わりあって、ひとつの現実となり、意味となる。

では、ひとつに繋ぐものとはなんだろう。内蔵された可能性や意味を生成するものとはなんだろう。

それはきっと、ラハヤのような知に麻痺することのない姿勢であり、無関心でない揺らぎであり、脈動しつづける情熱だろう。

情報は、いたるところに流動していて、ニュートリノのような速さで曲線を描いて逸れたところからやって来る。意味は、そのふるまいにアトピックに関わって、うねる波となり、光る粒子となる。

レーナ・クルーンの作品から響いてくるのは、わたしという存在は、けっしてひとりではないのだということだった。そして、わたしとは、未知数の可能性を抱く深い存在なのだということだった。

わたしという像は、さまざまな関係によって結ばれている。わたしという輪郭は、それに触れるなにかの始まりだ。「生きた自然の中では、全体と結びついていないものは何も起こらない(ゲーテ著『色彩論』より)」。部分は全体を想起させ、さらには、部分の総和は全体のそれよりもはるかに大きく、はるかに深いのだ、ということも。

「一切の部分が全体についての情報を与えているという点では、どんな群れもホログラムに似ている。個は集団の萌芽であり、個々は集団の全体を包含する。わたしとは、わたしたちである」(レーナ・クルーン著『蜜蜂の館』より)

青い西洋朝顔は、渡芬した日は十輪咲いて、帰国する日は一二輪に増えていた。 八月の、レーナ・クルーンの庭にはいつも、天上の青が咲いている。

八月という月は、なんだか、わたしにとっていつも忘れがたい。

木々がつぎの生命を宿すのも八月であるし、大きな分岐点に立つのもなぜか八月で、渡芬するのも振り返れば八月がもっとも多く、こうやってあとがきを書くのも蝉と唱和する八月が多いように思う。

そして、レーナとの最初の出会いも八月だった。

レーナ・クルーンというひとは、風化しえない心をもっている。

それはつまり、流されない自らの価値観を確かにもっているということだ。

レーナ・クルーンはヘルシンキに生まれ、哲学、心理学、文学、美術史を大学で学んだ後、絵本、児童書、小説、エッセーと幅広く執筆活動し、現代フィンランド文学を代表する哲学的思索の深い作家である。

フィンランディア賞やトペリウス賞を始め、フィンランドの芸術家に贈られる最高位勲章プロフィンランディアメダルも受賞した。しかし、同年にスハルト政権下時代の森林大臣にフィンランド獅子勲章コマンダー章が授与されたことに抗議し、同じく受賞した画家マルヤッタ・ハンヒヨキとともにメダルを返還した。

彼女の作品は、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国を中心に翻訳され、活躍の場は国内に留まらず世界に広がっている。夢と現実のあわいに揺れるもろもろの世界を叙情的に繋ぎ、生きとし生けるものたちへの温かいまなざしを忘れず、存在することの意味と可能性を問いつづけている。代表作の『タイナロン』はアメリカでワールドファンタジー賞候補作に選ばれた。

彼女の作品と出会い、その深さに触れ、わたしの情熱は駆動した。

その情熱ゆえに今のわたしがあり、その情熱こそがわたしを導いてくれているのだと思う。

文 末延弘子 『蜜蜂の館 群れの物語』(2007、新評論)より


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