KIRJOJEN PUUTARHA
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ロシア大公国時代の文学

長い間スウェーデンの支配を受けていたフィンランドは、1809年から1917年まで今度は東の隣国であるロシア大公国の自治領となります。このロシア大公国時代と呼ばれる時代に、独自の文学機関であるフィンランド文学協会(Suomalaisen Kirjallisuuden Seura)が1831年に設立されたり、三人の偉人と称される人物が登場したりと、フィンランドの文芸文化は飛躍的に発展を遂げます。この時代についていくつかの項目に分けて記述していますので、お好きな項目を右のメニューより選択してください。

なお、人名や書籍は読みやすいように日本語に訳して記載しています。

原語名は下記の索引を参照してください。

■ 索引
■ 参考文献一覧


長編小説の誕生

フィンランドにおいて、小説は19世紀中頃に登場します。小説の誕生には社会の変化が起因していますが、いわゆる中産階級市民が公の場に登場することと深い関わりがあります。商業や工業が国家権力を制するようになると、中産階級市民の間で現代社会への観念が発展してきました。この中産階級市民の意見の表明場として取り上げられたのが新聞や小説であり、このような機関を通して小説の重要性を唱えた人物がスネルマンでした。「叙事詩などは書いてはならぬ。英雄は過去を語るからだ」とスネルマンが言っているように、叙事詩は過去を語るものであり、小説は時代に拘束された時事問題を扱う最良の媒介物であったのです。

小説の発展において、概念的に影響を及ぼしたのは中産階級の役割やスネルマンの哲学などで、カール・ヤコブ・グンメルス(1840-98)やアレクシス・キヴィ(1834-1872)によって1870年には小説の地位が確固たるものになります。しかしながら、日本でもそうですが、フィンランドの文学においても小説の誕生には女流作家が大きく貢献しています。事実、フィンランドでも小説は女性たちの筆から誕生ました。これは当然の成り行きかもしれません。というのも、文芸においては、叙事詩、抒情詩、また劇詩などが高尚とされていたのに対し、小説は「然れども、我がフィンランドの民よ、冒された我がフィンランドの少年少女よ、世間で言うところの長編小説とやらの実態を知らないのだ。この空っぽ頭で卑しい文学の実態を」(1847年スオメタル誌より)と評されているように通俗的に見られていたからです。つまり、低俗と見なされていた小説は社会的に立場の低かった女性たちによって書かれ、それが活動の拠点となったのです。

フィンランド最初の長編小説家は、ヴィルヘルミーナ・カルステンス(1808-88)です。貧困に苦しむポルヴォーの中産階級市民のための慈善業の一環として、1840年に匿名で『蔦』を出版しました。カルステンスのように、匿名で書いたり慈善事業を目的として書いたりすることは、当時の女流作家に共通しており、それは社会における女性立場の低さを表しています。『蔦』は、思春期を迎えた二人の少女、ロサとマティルダの恋愛を対照的に描いた物語です。ロサは裕福な家柄の娘で純真無垢なロマンチストです。花嫁のティアラのように翻る蔦を幸福の前触れとして受け止めていましたが、婚約者の浮気を機に蔦は苦悶の象徴へと変化します。一方、マティルダはロサよりも二つほど年上で、現実に苦渋を敷かれた孤児です。不幸な結婚を強いられた公爵夫人との出会い、そして夫人の母性愛情がマティルダを変えて行きます。最終的には、婦人の息子とマティルダは幸せな結婚生活を送ることになります。この作品は、社会における女性の立場を恋愛と絡めて描いてはいるものの、女性の社会向上を目的としたものではありません。カルステンスは女性の低い立場を事実として認めているのです。

カルステスンよりも多産な女流作家にシャルロッタ・ファルクマン(1795-1882)がいます。彼女は匿名や偽名を用いて、『レオンナ』(1854)と『気ままな煉瓦工の養子』(1864)などを書き残しています。ファルクマンは作品を通して、結婚や家族における女性の役割や女性教育について語っており、カルステンスと同様に女性の立場を問題視せず、当時の男性が抱いていた女性像、いわゆる陰で男性を支える理想の女性像を描いていました。

このような社会を担う青年については、同時代に活躍した女流作家サラ・ヴァックリン(1790-1864)の作品にも垣間見られます。教職を退いたあと、スウェーデンに移り住んだヴァックリンは、そこでフィンランドの回想記録に基づく『ポホヤンマーでの百の思い出』(1844-45)を綴っています。三部から成るこの作品は、第一部にはスウェーデン王国支配下時代、第二部には1808年のフィンランド戦争とロシア大公国時代の幕開け、そして第三部には1822年に起こったオウルの大火について書かれています。『ポホヤンマーでの百の思い出』を通して男性が築き上げる社会を描いています。

先に挙げた女流作家たちは、男性の抱く理想女性像や女性の立場を問題視しませんでしたが、フレドリカ・ルーネベリ(1807-79)は、女性の立場を批判的な目で分析した人物です。

フレドリカの引っ込み思案で非社交的な姿勢は、幼少時代の体験に拠る所が大きいとされています。家族の批判的な姿勢が自分の社会的立場に懐疑心を抱かせたようです。この姿勢は執筆活動にも反映されています。女性として物を書く権利があるのか躊躇し、また批評の善し悪しに敏感でした。後にルーネベリと結婚しますが、国民的詩人の妻という社会的圧力に苛まれ、ルーネベリの陰としての存在に苦しんだようです。しかしながら、世間の目を気にしながら、反抗的な態度は示さずに妻の役割を完璧にこなしたとされています。

フレドリカは、自伝作品『私の筆物語』と歴史小説を二作品書いています。歴史小説『カタリーナ・ボイエ婦人とその娘』(1858)は18世紀初頭の大北方戦争(1714-21)にもとづき、『シグリッド・リルイェホルム』(1862)は17世紀変換期に起こった棍棒戦争などのフィンランドの紛争にもとづいています。参考までに、『カタリーナ・ボイエ婦人とその娘』は1843年に完成しており、仮に同年に出版されていたのなら、トペリウスの歴史小説に先駆けてフィンランドで最初の歴史小説となっていました。フレドリカに特徴的なのは、戦争などの歴史的事実を通して、社会的また因習的な境界線を打破する女性を登場させていることです。愛、結婚、忠誠心、そして権力への反発といったテーマは、同時代の女流作と共通していますが、差異が見られるのは、先も述べたように女性の役割を問題視している点です。例えば、『カタリーナ・ボイエ婦人とその娘』では娘の従順さが死を招き、『シグリッド・リルイェホルム』では女性の社会進出の難しさを訴えています。フレドリカにとって、歴史や戦争は男性社会で押さえつけられた感情を露呈する恰好の場であったのかもしれません。これはまた、国民詩人ルーネベリの妻という社会的圧力に苛まれた苦痛や、偉人の陰の存在としての感情の吐露であったのかもしれません。


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