KIRJOJEN PUUTARHA
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ロシア大公国時代の文学

長い間スウェーデンの支配を受けていたフィンランドは、1809年から1917年まで今度は東の隣国であるロシア大公国の自治領となります。このロシア大公国時代と呼ばれる時代に、独自の文学機関であるフィンランド文学協会(Suomalaisen Kirjallisuuden Seura)が1831年に設立されたり、三人の偉人と称される人物が登場したりと、フィンランドの文芸文化は飛躍的に発展を遂げます。この時代についていくつかの項目に分けて記述していますので、お好きな項目を右のメニューより選択してください。

なお、人名や書籍は読みやすいように日本語に訳して記載しています。

原語名は下記の索引を参照してください。

■ 索引
■ 参考文献一覧


民族性を求めて‐レンロート

Elias Lönnrot ヨーロッパでは18世紀半ばに既に、ドイツ(ヘルダー『民俗歌謡』)やスコットランド(マックフェルソン『古代詩篇』)などに民俗詩の編纂が見られ、19世紀になると、古典主義時代の理想や詩に登場する英雄などに結びつけられるようになりました。ケルト人の民族楽器ハープを奏でる吟遊詩人バルディの存在は、その典型的な例であり模範とされました。

フィンランドにおいては、16世紀にアグリコラによる民俗詩収集、18世紀後半にポルトハンによる民俗詩研究、19世紀初頭にゴットルンドによるカレヴァラ・アイデンティティーの主張などにより、それぞれの時代の解釈で古代探求がなされてきました。しかし、これまで確固たる形で国民の文化を記したものはありませんでした。そのような状況の中で、フィンランドの文化に根づいている民俗詩の収集に専心し、フィンランドの古代(フィンランドのバルディ)を追い求めた人物がエリアス・レンロート(1802-84)です。

レンロートは、「古代フィンランド人の神、ヴァイナモイネン」(1827)、『カンテレ若しくはフィンランド民族における新旧の詩と歌』(1829-31)、未刊行のままに終わった「ヴァイナモイネンの詩集」(1833)といったように研究を残し、更に、11回に渡る民俗詩収集の末、民俗詩をもとに叙事詩として編纂した『カレヴァラ』(〔古〕1835、〔新〕1849)や民俗歌謡集『カンテレタル』(1840)を刊行しています。四脚の強弱格(カレヴァラ韻律)で書かれた『カレヴァラ』の主軸を成すのは、秘器サンポやポホヨラの乙女を巡って繰り広げられるポホヨラ族とカレヴァ族の戦いです。ポホヨラには老婆ロウヒが、そしてカレヴァにはヴァイナモイネンやイルマリネン、レンミンカイネンといった英雄が登場します。戦闘劇の他に、婚姻劇や復讐劇などが盛り込まれています。

『カレヴァラ』の出現は、具体的な文語作品を有していなかったフィンランド語文学の発展に貢献したことは言うまでもありません。『カンテレタル』においては、フィンランド語叙情詩の足掛かりとなりました。1847年の「スオミ」誌でゴットルンドは、レンロートの業績を誇大して「ホメロスのイリアス若しくはオデュッセイアに比肩する」と評しています。しかし、性格の異なった詩から成り立つエッダや、個々の詩より構成されて一つに纏め直したホメロスの叙事詩誕生を念頭に置いたうえで、レンロート自身は『カレヴァラ』を編集しています。つまり、口承により語り継がれた民俗詩を基盤にしてはいるものの、叙事詩研究家ヴィクルンドが指摘しているように、実際にはカレヴァラの物語はレンロートの机上で誕生したようです。『カレヴァラ』は叙事詩や神話というよりも、時の思潮に乗って創作された古代フィンランドの歴史だと言えます。すなわち、スウェーデンやロシアの歴史ではない、フィンランド独自の歴史探求の具体的な表現方法であったということです。

このようにして誕生した『カレヴァラ』ではありますが、当時の学識層や高級官僚に国民文化を根づかせることはできませんでした。というのも、公の場でのフィンランド語の使用が活発でなかった当時、スウェーデン語を用いていた学識層や高級官僚は、フィンランド語で書かれた『カレヴァラ』を理解できず、また、さほど関心も寄せなかったからです。 確かに、ゴットルンドなど一部のフィンランド語研究家や知識人は『カレヴァラ』の存在に着目して言及していますが、まだごく限られたものでした。むしろ、この当時の知識人や高級官僚の多くは、次項で述べるルーネベリがスウェーデン語で書いた作品を介して民衆の文化や社会に親しんでいました。

カレヴァラ研究家ハンス・フロムによると、実際に『カレヴァラ』の売れ行きは捗々しくなく、1835年の『古カレヴァラ』は500部発行されたものの10年間蔵書棚に眠っていました。更に、1841年にカストレーンのスウェーデン語訳により多少の注目は浴びたようですが、フィンランド語を話せない人々は、1864から68年にかけてやっと世に出たコッランのスウェーデン語訳によって『カレヴァラ』を手にするといった具合です。『カレヴァラ』がフィンランド文化において興隆期を迎えるのは、1890年から1900年代初頭に起こった新ロマン主義であり、その一方向性であるカレリアニズムの時代です。「レンロートはフィンランド民族に過去を夢見させた」と新民族ロマン主義詩人エイノ・レイノ(1878-1926)が書いているように、レンロートが夢を追い求めたカレリア地方が芸術家の創作力を鼓舞させ、フィンランド新民族ロマン主義文化(芸術、音楽、文学)の拠り所となります。


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