KIRJOJEN PUUTARHA
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ロシア大公国時代の文学

長い間スウェーデンの支配を受けていたフィンランドは、1809年から1917年まで今度は東の隣国であるロシア大公国の自治領となります。このロシア大公国時代と呼ばれる時代に、独自の文学機関であるフィンランド文学協会(Suomalaisen Kirjallisuuden Seura)が1831年に設立されたり、三人の偉人と称される人物が登場したりと、フィンランドの文芸文化は飛躍的に発展を遂げます。この時代についていくつかの項目に分けて記述していますので、お好きな項目を右のメニューより選択してください。

なお、人名や書籍は読みやすいように日本語に訳して記載しています。

原語名は下記の索引を参照してください。

■ 索引
■ 参考文献一覧


スウェーデンからの隔離

19世紀初頭のフィンランドは、歴史の転換期を迎えました。これ以前の約650年間、西隣 スウェーデン王国の支配下にあったフィンランドは、東隣ロシアの政治的また軍事的な影響力を現実問題として受けるようになりました。既にロシアの西方進出は、18世紀初 頭の大北方戦争に始まり、フィンランドに至っては1710年以降に全土を占領されています。 更に対露報復戦争である紳士帽党戦争(1741-43)において、再びロシアの占領を受け るものの、いずれの場合も、ウーシカウプンキ講和条約(1721)、トゥルク条約(1743) を経て、フィンランドは再びスウェーデンに帰属していました。しかし、19世紀初頭のフィンランド戦争(1808-09)を機に二度とスウェーデン王国下に戻る事はなく、いわゆる"スウェーデンからの隔離"が現実のものとなりました。

19世紀初頭スウェーデンとの直接的な絆を断たれたフィンランドには、独自の文化や宮廷詩人というものがなく、いわば空洞状態でした。そこで、アルヴィッドソン(1791-1858)が、「最早、瑞典の民に非ず、さりとて露西亜の民を望まず、然らば故フィンランドの民で在ろうぞ!」と発言したように、その虚無的な文化環境を埋めようとします。つまり、自らの国の民である国民という意識を追い求め、それを基盤とした文化構築が行なわれ始めたのです。

19世紀に至るまで国民(民族)という意識がフィンランドに興隆するのは、第一期としてブッダやアグリコラの聖書翻訳時代、第二期としてユスレニウスに始まるフェンノフィーリ、第三期としてポルトハンに表される啓蒙主義・初期ロマン主義時代、と大きな尺度で区分できます。この第一期と第二期の国民という意識は、キリスト教的あるいはラテン語修辞学的な解釈に基づいています。つまり、神の言葉をそれぞれの地域の人々(国民)に伝えるものでした。これにより、地域の言語などといった地域性の意識が重要視され始め、ブッダによる聖書のスウェーデン語訳(一部訳,1484)、アグリコラによるフィンランド語訳(1548)が記されています。中でもアグリコラは、フィンランドの民俗詩にも興味を示し、その収集も行なっています。

このような地域的な意識は、時と共に他の地域と自らの地域を比較する視点へと拡大していきます。例えば、1700年にユスレニウスによってオーボ・アカデミーで最初の博士論文「新旧トゥルク」が書かれています。その中でユスレニウスは、フィンランドでも特にトゥルク地方について、その歴史、言語、自然などを賞賛しています。このユスレニウスに代表されるフィンランド嗜好を一般にフェンノフィーリ(Fennofiili)と形容しますが、これはスウェーデンあるいはスウェーデン文化に対するフィンランドの地域意識の表われでした。

18世紀後半になると、新たな形で国民性を求める動きが起こり始めます。啓蒙思想・ロマン主義の到来です。啓蒙思想による合理性の追求、ロマン主義による観念と感情の結合などの要素は、自然、家族生活、民俗性などの題材を助長する契機となりました。他国に視点を向けると、スコットランド人マックフェルソンの『古代詩篇』(1760)、ドイツ人ヘルダーの『民族歌謡』(1778)など民俗詩に関する書物が記されています。同様に、この時期のフィンランドでもトゥルク大学雄弁学(ラテン語学)教授であるポルトハンにより、フィンランドで最初の民俗詩研究論文「フィンランドの詩」(1766-78)が表されています。民俗詩の収集目的は、民族の本源を表現すること(文芸の方向性)でした。これにより初期のロマン主義時代に民族の意義が叫ばれ、一つの言語と民族(国民)が全体を形成するということが強調され始めました。

このような郷土に対する愛着は、ごく僅かではありますが文芸の中でも表現され始めます。ポルトハンの教え子でフィンランド・ロマン主義の先駆者であるフランツェーン(1772-1847)は、精神世界を自然と融合させ、郷土に想いを馳せた詩を残し、19世紀に本格化するフィンランド・ロマン主義文学の礎を築いています。 このように18世紀末より育まれたロマン主義的な民族性への追求は、19世紀に至るとスウェーデンからの隔離、中産階級の台頭、フィンランド内陸部の開拓、啓蒙思想の流布など社会的な変動と合間って、前述したアルヴィッドソンの言葉のようにフィンランドの主体性(国民像)を求める動きに同化されていきます。概略として、文芸面では中産階級の台頭と共に、それまで上流階級に向けられていた定型詩が主体性を帯び始め、詩人は自分の個性や精神生活を描写するようになりました。また、民族性という面では、スウェーデンからの隔離や農地開拓により、スウェーデン文化があまり浸透していないフィンランド内陸部の社会が注目され始めます。更に、啓蒙による合理化は、「我々は皆、同じである」といった概念を人々に植えつけ、一般の人々が意見を表明できる環境を作り出しました。 実際に、この時代を物語る詩「スオミの詩」(1810)がユテイニ(1781-1855)によって次のように描かれています。

スオミの男子、畑にて
精魂込めて耕そうぞ
寒巌森林、
力の限りにて耕そうぞ
悠々たるは平和の男
猛々しいは戦の男。

我も時に学びたり
スオミの偉人たちよ。
ヴァイナモイネンのカンテレよ
ここで新風吹きたり
啓蒙は流布された、
理性は覚醒された。

スオミの女子の頬
真紅の花の頬
霜降りつつも褪むこと知らず、
氷点下りつつも冷むこと知らず
自然に懐柔、
心に純潔。

「スオミの詩」より

ユテイニは、「スオミの詩」で「新風吹きたり」と「啓蒙の流布」を描いています。この啓蒙という言葉は、19世紀初頭のフィンランドの社会を考える上で重要となります。啓蒙による合理的な考え方は、それまで陰に追いやられていた民衆の存在を表面化させ、更に民衆に意識改革をもたらす結果となりました。つまり、啓蒙により民衆の間に政治、経済、文化といった社会問題に対し、自由に意見を述べることのできる意識あるいは社会問題を公の場で討論によって解決しようという意識が育まれたのです。このような中で、民衆の意見や討論は、有識者により新聞や雑誌といった媒体を介して 展開されます。学識者がこの担い手となった背景は、十分に意見を表すことができる教養を持ち合わせていること、または、学識者が社会的に上流階級と一般大衆の間に置かれている存在であったことなどの諸条件が挙げられます。いわば学識者は、上流階級と民衆の間の橋渡し的な存在であったのです。

実際に、これらの媒体は主にロマン主義に傾倒しているトゥルク大学の若手教師陣(アルヴィッドソン、テングストロームなど)によって開始されます。彼らは、文芸倶楽部セルマ(Selma ‐seura)を主催し、同人誌「アウラ」(1817-18)や「ネモスュネ」(1818-23)を刊行します。文芸誌として「アウラ」には、主にドイツ・ロマン主義文学作品の翻訳が掲載されていますが、文化に対する彼らの見解も記されています。例えば、リンセーン(1785-1848)は、時勢を反映して次世代の社会を担う中産階級の重要性を説き、上流階級に与えられている特権を排除すべきであるという見解を示しています。加えて、「ネモスュネ」では文化の意味について言及し、大衆文化(言語など)を擁護しています。セルマの主催者であるアルヴィッドソン(1791-1858)は、「アウラ」や「ネモスュネ」以外にもオーボ・モルゴンブラッド紙(1821)を刊行し、政治、経済、司法、文化と多方面に渡り討論の場を提供しています。その中で彼は、とりわけ市民の利益、言論の自由、民族精神(フィンランド語の重要性)などを強調し、前述したように「・・・フィンランドの民であろうぞ」とフィンランド人の主体性を表現しています。セルマの中でも、殊に重要な人物は、テングストローム(1787-1853)です。彼は、フィンランド文学と文化における障害物について「アウラ」に記し、文化構築の指針を唱えています。フィンランドの文化を豊かなものにするには、まず上流階級を含め学識者が大衆文化を理解し、評価を与えることが重要であると考えたのです。つまり、テングストロームは、上流階級市民に大衆文化を根づかせる必要性について問うています。その上で、民衆の文化ともいえる民俗歌謡や童話の収集の重要性を語り、それらが学識者と大衆の間を結びつけるものと考えました。

民俗詩や民俗歌謡の重要性については、18世紀末に啓蒙思想やロマン主義がフィンランドに到来した当時、既にポルトハンにより説かれています。しかし、ポルトハンの時代の民族性への探求は、先に述べたテングストロームのように上流階級と民衆を結びつけるためのものではありませんでした。そもそも、民俗詩や神話などがロマン主義において注目を集めたのは、啓蒙による合理主義的な考え方の中で、これまで絶対的であったキリスト教的な解釈が、精神世界を表現する上でそぐわなかったことによります。そのような中で、地域 の固有文化や、その地域性を育んだ民族に対する関心が昂揚し、地域に根差した文化(民俗詩、神話、民俗歌謡)を介して精神世界が表現されるようになったのです。これによって、ヘルダーに代表されるように民族文化の重要性が説かれていきます。

この点を考慮に入れると、テングストロームの民族文化への関心は、本来のロマン主義的なものではなく、ロマン主義的な民族意識が国家主義的な様相へと同化されていく過程を示しています。このテングストロームの思考の背景には、彼がドイツ留学中に親しんだヘーゲル的な愛国思想があります。民衆が抽象的精神を結合するというヘーゲルの思想は、テングストロームの教え子であるルーネベリやスネルマンなど次世代の文化の担い手に影響を及ぼすこととなります。


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