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第15回国際ブックフェア

フィンランド文学情報センター(FILI)のレセプションにて

第15回東京国際ブックフェアに先立って、2008年7月9日にフィンランドセンターで行なわれたフィンランド文学情報センター(FILI)のレセプションでの講演内容を掲載します。

    ご挨拶に代えて-ティーナ・レヘトランタ (FILI所長代理)

フィンランド文学協会(SKS)は1831年に設立されました。設立に携わったメンバーは、若くて行動力のある大学関係者の男性たちでした。「言語は国民性の礎」と考え、初代事務総長にフィンランドの国民的叙事詩の編纂者エリアス・レンロート(Elias Lönnrot)が就任しました。

フィンランド文学情報センター(FILI)は、SKSの下部組織として運営されて30年になります。FILIは、スウェーデン系フィンランド語とサーミ語を含むフィンランド文学の翻訳、印刷、刊行を支援し、海外におけるフィンランド文学の振興を促進している専門機関です。FILIは、他言語からの純文学やノンフィクション文学の翻訳支援も行っています。翻訳助成のほかに、翻訳家の育成、出版社の招致、ブックフェアや文学イベントなど、支援形態はさまざまです。また、季刊誌『Books from Finland』を年四回発行し、フィンランド文学を推進しています。

年に二回、翻訳および印刷にたいして51万ユーロの助成金を給付し、毎年、200を超える作家や翻訳家を各イベントに手配しています。SKSの図書館と協力して、世界で唯一のフィンランド文学翻訳データベースを維持管理し、FILIのウェブサイト(http://www.finlit.fi/fili/)に公開されています。

今年も、東京国際ブックフェアに出展できますことをたいへん嬉しく思います。このようなレセプションの場を設けてくださったフィンランドセンターに感謝します。とくに、同センターの文化コミュニケーションマネージャーのアールネ・トイヴォネン氏には多大なご協力をいただきました。また、私たちのために足を運んでくださったご出席者の皆様にも感謝します。出展する本は、多様な読者や文化を感じていただけるものだと思っています。それらを伝えてくださる翻訳家の皆様にもお礼を申し上げます。

訳 末延弘子

     FILIとフィンランド児童書について-レーナ・ラハティ (FILIプロジェクトマネージャー)

本題に入るまえに、二人の姪っ子とともに私が宮崎駿監督の大ファンであり、トトロの国に初めて来ることができたことが、子どものように嬉しくてなりません。日本とフィンランドはあらゆる仕方でお互いに遠く離れていますが、深く普遍的な言葉を有する子どもの本や文化を考えますと、隔たりはそれほど感じません。日本でのムーミン人気も、フィンランドでの宮崎監督のアニメ作品のヒットも、おそらくそうした理由からでしょう。

フィンランドの今の子どもの本をこうやってご紹介できるということも、たいへん光栄に思っています。とにかく良い本ばかりです!フィンランドでは、年間およそ1,500点もの子どもの本が発行され、発行点数は年々増えています。今年に入って読んだ本の中で、自分でも驚きましたが、印象に強く残ったのは子どもの本でした。子どもの本を読みながら、泣いたり笑ったり、ふうんと思ったりうわっと思ったり。ウィットと情緒、弾ける想像力とありえないユーモア。ここでは、私たちのおすすめ本を簡単にご紹介したいと思います。まったくもって主観的なセレクトではありますが、フィンランドではどんな本が作られているのか、なんとなくでも感じていただけたらと思います。

フィンランド児童文学機構のカイス・ラッテュア所長によると、2000年以降、フィンランドでは児童向けノンフィクション本がぞくぞくと刊行され、今や1000点を超えました。内容もますます多様化し、親子が一緒に作る機会を与える本などもあります。ピヒラ・メスカネン(Pihla Meskanen)の『Pieni majakirja(ちっちゃな秘密基地の本)』は、砂漠の遊牧民ベドゥインのテントから木の小屋の作り方まで載っています。マイヤ・バリック(Maija Baric)の『Nukketeatteria(人形芝居)』では、影絵芝居に使う12種類の指人形の作り方が載っています。お母さんのための子ども服の本『Juju - Erilainen lastenvaatekirja(ちちんぷいぷい 子ども服いろいろ)』ではユニークな子ども服の作り方が紹介され、著者のマリ・サヴィオ(Mari Savio)とカティ・ラピア(Kati Rapia)は、独自の発想、古着の利用、子どもの個性に目を向けるように促しています。

伝説や神話を取り上げている子ども向けの本もあります。楽しいお話と絵でフィンランドの伝説の生き物を紹介したメルヴィ・コスキ(Mervi Koski)の『Suomalaisia haltijoita ja taruolentoja(フィンランドの精霊たち)』や、マルユット・ヒェルト(Marjut Hjelt)とヤーナ・アールト(Jaana Aalto)の『Keijukaiset - Totta ja tarinaa toisesta maailmasta(フェアリー もう一つの世界の真実と物語)』などがそうです。伝説はあらたに書き直されてもいます。昨年の冬に映画化されたマルコ・レイノ(Marko Leino)の『Joulutarina(クリスマス物語)』は、フィンランドのクリスマス伝説にあたらしい見解を与えました。物語では、サンタクロースの感動的な人生とクリスマスにプレゼントが配られるようになった秘密が明かされます。ユッカ・イトコネン(Jukka Itkonen)は、『Sorsa norsun räätälinä(カモはぞうの仕立て屋さん)』で、型破りのユーモアと笑いの絶えない再解釈で、古典的なメルヘンをすっかり現代風に変えました。ニキビ顔のお姫さまが運命をつかんだり、おばあちゃんがオオカミを食べたりするくだりを、楽しそうに読む小学生の男の子がなんだか思い浮かびます。

行動的なお姫さまが登場する子どもの本はたくさんあります。たとえば、ティモ・パルヴェラ(Timo Parvela)の「エッラとゆかいな仲間たち」シリーズ、パウラ・ノロネン(Paula Noronen)の「スーパーモルモット」シリーズ、ユバ・トゥオモラの『ちっちゃなミネルヴァとゆかいな仲間たち ドクター・ボギーに花束を』では、長くつ下のピッピのような主人公に出会えます。児童書「エッラ」シリーズの主人公エッラは冒険好きな小学二年生で、フィンランドの子どもたちが大好きな本です。12巻目となる新刊『Ella ja seitsemän tärppää(エッラと七人の仲間たち)』では、エッラは友だちと大都会を冒険します。ファッションショーの会場に立ち寄ったり、迷子になったり、見つかったり、変装したり、別行動したり、新しい童謡を思いついたり、困ったり、助けられたり、先生のスパゲッティーを食べたり、テレビ局を占拠したり。ノロネンの『Supermarsu lentää Intiaan(スーパーモルモット、インドへ飛ぶ)』は、スーパーモルモットのパワーを手に入れた11歳のエミリアの物語です。スーパーモルモットパワーで、いじめられている同級生のシモにとびきりおかしいジョークを教えます。シモは、学校のジョークコンテストで優勝し、いじわるアンテロをぎゃふんと言わせます。トゥオモラの絵本の主人公ミネルヴァは段ボール箱に乗って、世界を救うために旅立ちます。

メルヴィ・リンドマン(Mervi Lindman)の絵本『Urhea pikku Memmuli(ちびのメンムリのゆうき)』は怖がりの少女メンムリのお話です。トイレの水が流れる音にも、フルーツスープにも、お風呂の泡にもちびのメンムリはびくびくします。お話では、恐いものと向きあって克服するまでのメンムリが、温かいユーモアで描かれています。勇気とは、怖がらないことではなく、恐いことを受け入れることなのです。

近年、フィンランドではこのように難しいテーマを取り上げた子どもの絵本が多くなりました。悲しみや死をテーマにしたシリーズに、リーッタ・ヤロネン(Riitta Jalonen)とクリスティーナ・ロウヒ(Kristiina Louhi)の『Tyttä ja naakkapuu(とまり木と少女)』と『Minä, äiti ja tunturihärkki(わたし、お母さん、ミミナグサ)』があります。また、パイヴィ・フランツォン(Päivi Franzon)とサリ・アイロラ(Sari Airola)『Surusaappaat(かなしみの長靴)』も同じようなテーマを扱っています。おばあちゃんの死に向き合い、受け入れる少年エーミのお話で、アイロラの情緒的な絵が印象的です。

マリア・ヴオリオ(Maria Vuorio)の児童書『Orava ja pääskynen(リスとツバメ)』は、寓意的な手法で異文化や違いを受け入れるお話です。秋、リスが硬直したツバメを見つけます。リスは、春が来るまでツバメを自分の家に置いて暖めます。二人の出会いと別れが細やかに描かれたハートフルな物語です。もの悲しい雰囲気ながらも、ユーモアがあって温かくてじんとくるハッピーエンドに終わる物語です。この児童書は、2007年度のフィンランディア・ジュニア賞の候補に選ばれました。

スナ・ヴオリ(Suna Vuori)とカトリ・キルッコペルト(Katri Kirkkopelto)の絵本『Hirveää, parkaisi Hirviä(ちびのモンスターのこわい夢)』では、ちびのモンスターが、(当然ながら)人間がモンスターの存在を信じない悪夢を見て、自分の存在について考えます。生と死と存在について、おとうさんモンスターとおかあさんモンスターと一緒に考え、人間がモンスターをどう思っていようとも、愛を信じることが大切だと教えられます。

最後に、挿絵が印象的な絵本をご紹介します。

  • レーナ・ラウラヤイネン(Leena Laulajainen)『Kultamarja ja metsän salaisuudet(クルタマルヤと森のひみつ)』
  • サリ・アイロラ『Mia Tiu ja sata sanaa(ひゃくまでかぞえるよ)』 と『Muuttolintulapsi(わたり鳥になったアンナ)』
  • ティーナ・ノポラ(Tiina Nopola)&メルヴィ・リンドマン「シーリ」シリーズ
  • カーリナ・ヘラキサ(Kaarina Helakisa)&ヘリ・ヒエタ(Heli Hieta)『Prinsessan siivet(おひめさまの翼)』
  • マリン・キヴェラ(Malin Kivelä)&リンダ・ボンデスタム(Linda Bondestam)『Den färträfflige herr Glad(すてきなハッピーおじさん)』

かいつまんだお話でしたが、今回のブックフェアでは、60冊のフィンランドの本をご用意しています。きっと、お好きな一冊が見つかると思っています。ぜひ、私たちのブースにお越しください。お待ちしています。

訳 末延弘子

     余白のある本-末延 弘子 (フィンランド文学翻訳家)

子どもの本は、わたしのテンポとスケールを変えてくれます。形と大きさの関係はもはや絶対的でなく、わたしに遠くまで行く力を与えてくれます。まるで、ハムレットの胡桃のように想像力は無限大になり、世界を所有している感じを抱き、わたしの目は望遠鏡や顕微鏡になります。澁澤龍彦氏の言うように、世界の出来事は大きいか小さいかではなく、遠いか近いかになります。遠いものにもっと近づきたい、そんな思いで子どもの本を読み、翻訳しています。子どもの視点に立つというのは、相対的な世界を超えることだと思います。

わたしにとって、子どもの本の世界には東洋的なアプローチがしっくりきます。いろいろな主体が包みこまれた場所がそこにあって、ミクロもマクロも分け隔てなく共在している世界。それは、実時間を超えた俳句の風景すら思い起こさせます。フィンランドの子どもの本にも、俳句のように言外の余情を自然に投影させた作品が多く、トーベ・ヤンソンの「ムーミン」シリーズやレーナ・クルーンの児童書やリーッタ・ヤロネンの三部作やティモ・パルヴェラの『シーソー』やハンネレ・フオヴィの童話などが心に残っています。

フィンランドは、地理的にはヨーロッパに属していますが、その存在の仕方には日本人が共感するところが多分にあります。フィンランドと日本の天地開闢神話を見てみますと、フィンランドの叙事詩『カレワラ』も日本の『古事記』も混沌とした塊から世界が生まれています。フィンランドは宇宙卵から、日本は天地が未だわかれない状態から、神格的存在がたくさん誕生しました。無に存在の兆しを見るところに、通じあうなにかを感じます。日本人がさまざまな現象に八百万の神を見るように、フィンランド人も森や家や湖やサウナといった事物に神が宿っていると考えています。キリスト教が入ってきてからも土着的な信仰は大切にされているように思います。ですから、レーナ・ラハティ氏はトトロ的な世界に惹かれ、わたしたちは「ムーミン」のような曖昧な存在が好きなのだと思います。その好きだという気持ちの根底には、自分を自覚するのは他を受け入れてこそであり、世界あるいは全体は他の多くの存在との関係の上にあると意識しているからだと、わたしは思っています。

そういった自然との関わり方があるからこそ、難しいテーマの本が少なくないのだと思います。大人向けの文学作品でも、無意識のレベルで自己の内面と向き合うものが多いように思います。ヤロネンの絵本三部作の第一弾『とまり木と少女』は、父親の死をきっかけに母親と一緒に新境地へ向かう少女の物語です。少女は、鉄道駅でコクマルガラスが止まっている大きな木を目にします。ふいに前触れもなく一羽が飛び立ち、それを追うようにいっせいに飛び去ってしまいます。あとに残された木に少女は自分を重ねあわせ、孤独感と喪失感を乗りこえてゆく心境が風景に映しだされてゆきます。ハンネレ・フオヴィの新刊『おおきいくまのタハマパー』では、大きいクマのタハマパーが、森に住む仲間のリスやハリネズミやヘラジカの力を借りて家を建てます。それぞれ自分の大きさにぴったりの家を提案しますが、最終的には家を建てる大きいクマのタハマパーの立場になって考えるようになります。「みんなちがってみんないい」森の仲間たちの物語です。

難しいテーマと少なくはない文章量。このような子どもの本がフィンランドに多いのは、FILIのハンネレ・イュルッカ氏が指摘しているように子どもを過小評価していないという証です。そして、子どもに想像する余白を残してあげるためだとも思います。かつて見たもの、かつて経験したもの、そういった感覚に訴える事象がたくさんあれば、先が読めなくても子どもはそれらを繋げて全体へ組み立てます。しかし、小さな子どもにはまだ読めない文字もあります。せっかく動きだした子どもの想像力が、そこにつまずいて収束しないように、ここで親の読み聞かせが大切になってくるのだと思います。フィンランドでは親子の共有時間を大切にしています。読み聞かせの時間は、子どもの想像力を育む時間であり、親子の愛をわかち合う、とても有機的な時間です。

数学者の岡潔氏は、人の中心は情緒であり、心のへその緒は三歳まで切れていないと言っています。自分と他人の分別がまだない童心の時期に、いろんなものを受け入れる力がつきます。それが、想像力となり、思いやりの心になります。「今日はお月さまを味わうの」と言ったフィンランドの女の子は、まだ三歳で、お父さんやお母さんと読み聞かせの時間をたくさん経験していました。わたしも、知らないことをたくさん受け入れたい。ですから、翻訳するときには大人であることを忘れるようにしています。自分という中心から逸れて、未知と出会う場所に帰ります。それを、童心に帰ると言うのかもしれませんし、無になると言うのかもしれません。

カトリ・タポラの新刊『マウノのシティ動物記』では、都会に潜む動物を追いかける、自称"動物学者"のマウノ少年の物語です。ランプの陰に隠れたベルトはヘビになり、道路から突き出した水道管は白鳥になり、巨大な石は冬眠中のカメになり、あらゆるものがマウノの目の中で動物に変身します。レーナ・クルーンの新刊『わたしの家はリーオラー』では、動物好きの小さいパウリ、科学者を夢みる大きいパウリ、車椅子に乗ったライヤ、大人になりたくないルスという村の子どもたちが登場します。子どもたちのとっておきの遊び場となった小さなランプ屋を中心に、自分たちにとってのほんとうを考えます。誰とでも友だちになれる小さいパウリには、他の子には見えない動物が見えたり、妖精の靴を見つけたりします。箱庭ごっこで風景を盛るのが得意なルスは、ブルーベリーの小枝を白樺に、砂利道で拾った小石を岩に、母親からもらった手鏡を湖に見立てます。パウラ・ノロネンの「エミリアの日記」シリーズでは、少女エミリアがペットのモルモットからパワーをもらって、スーパーモルモットとして問題を解決します。

子どもたちは見立てや「ごっご遊び」がとても上手です。現実を理解するために、あるいは、現実を表現するために、たくさんのバリエーションを持っています。それを、想像力というのだと思います。フィンランドの子どもの本は、説明的でわかりやすいというのではないけれど、想像する余白をきちんと与えてくれます。その余白があるからこそ、何度でも読みたくなり、いつも新鮮で、発見の喜びをもたらしてくれるのだと思います。そして、その余白の取り方は、わたしたち日本人にとってアプローチしやすいものだと感じています。


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