KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

あとがき / クリスマス物語

末延弘子

心のありか

サンタクロースの手紙

私は絵が好きで、子どものころから画集や絵本雑誌をよく読んでいました。あるとき、雑誌をぱらぱらめくっていたら、「サンタクロースに手紙を出したい人へ」という文字が目に飛びこんできました。もう中学生になっていたけれど、サンタクロースは本当にいるのか知りたくて、私は手紙を書きました。それから数ヶ月後の十二月、雪の降る日に一通の手紙が届きました。それは、フィンランドから届いたサンタクロースの手紙でした。待ち望んでいた人からの返信だったことや、はじめて手にした外国からの手紙だったこともあって、胸が高鳴りました。
 手紙には、生命のふしぎと尊さが語られ、生きとし生けるものたちへの温かいまなざしがありました。
 花は咲き、鳥は歌う。雪が降り、風が吹く。それぞれ存在の仕方はちがうけれど、自然のどの一隅も光にあまねく照らしだされ、いずれもひとしく大切なのだと、最近、手紙をもういちど読み返しながら、その思いに至りました。

感動する心

本書にたずさわっている間、フィンランドで過ごした冬がいくどとなくよみがえりました。冬が近くなるたびに、建物や街路樹、森や湖の一つ一つの境界線が消え、いっさいが白い雪に静もってゆきました。白につつまれた生命は、春の光を浴びたとたん、クロッカスは黄色へ、雪割草は紫へ開きました。湖は青を映し、緑は風に騒ぎ、虫は花に急ぎました。日本にくらべると、すべてがあまりに迅速で、同時に立ち現れました。至るところに生命の輝きがあって、それは多様に存在しているということに、あらためて気づき、感動しました。
 感動というのは、個人的な体験ではあるけれど、自然や人といった関わる対象があってこそ生まれる心だと思います。感動するとき、私は、心はいったいどこにあるのだろうと、心のありかを考えます。心とは、私だけのなかになく、私の肉体を超えて広がっている精神的な空間のように思います。その空間は目に見えません。でも、たしかに分かち合っているのだということを、なにか目に見えるかたちを通して、私たちは確認したいのかもしれません。それが、言葉であったり、絵であったり、器であったり、踊りであったりするのだと思います。

心の伝えかた

 ニコラスは、贈りものというかたちで心を伝えようとしました。そこに、与えることの大切さをこめました。たった一人になってしまったニコラスを育てたのは、出会ったすべての人びとでした。彼らが温かいまなざしを与えてくれたからこそ、ニコラスは一人ではないと感じることができました。そして、彼らと関わったからこそ、サンタクロースというあり方の可能性を発見し、そこに賭けたのだと思います。
 サンタクロースとは、心を共有する場所のように思います。ニコラスは、贈り主が自分だということを伏せて配りつづけました。大切なのは、サンタクロースが誰なのかよりも、サンタクロースによってなにが示されるのか、だと思います。それはきっと、誰もが平等にまなざしを受け、そしてまた、誰もがサンタクロースになれる、ということなのだと思います。あの人のことを思って手紙を書いたり、この人を思いながら贈りものを包んだりする。そうやって思いをかけたい存在で胸がいっぱいになったとき、その人はもう、サンタクロースになっているようにすら思います。
 そんな与えることの意味を伝えつづけていくことを、ニコラスは強く望みました。伝統というのは、これだと明らかに示すことはできません。それは物ではなく、心のあり方だからです。それに、伝統は過去のものではなく、現在のものです。ですから、伝えつづけ、生かしつづけることに、はかりしれない意味があるのだと思います。
 十二月、極地の闇に明かりが静かに灯ります。フィンランドに住んでいたころ、小さな広場をはさんだ向かいにアパートがありました。夜が来るたびに、窓辺のキャンドルが灯りました。昨日はあそこ、今日はここ、明日はどこが灯るかな。そんなことを思いながら、明るくなってゆく向こうの窓を、毎日ながめていました。明かりはおだやかに揺れ、ずっと消えぬまま、聖夜に向かってやさしく満ちてゆきました。
こんなふうに照らし合って、いつも心が満ちてゆくよう、願います。

(文 末延弘子 『クリスマス物語』(2010、講談社)より)


気まぐれエッセーの目次へ   ▲このページのトップへもどる