KIRJOJEN PUUTARHA
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あとがき / 偽窓

末延弘子

未来の種子

十月のヘルシンキは雨に濡れていました。止み難い通り雨に、白樺は一途に黄葉し、楓は赤に燃え、晩秋だと告げていました。どの葉にも、過ぎ去った夏の日の記憶があり、光に揺れ、驟雨に揺れ、訪れた鳥や羽虫に揺れ、それらの消息ゆえに、私は美しいと思いました。

なぜ、美しいのか。あるいは、なぜ、美しいと感じたのか。美しいと感じるのは個人的な体験ではあるけれど、一人では生まれません。相手あってこそ生まれるものです。私ではない他を思いやり、他者に席を譲り、相手に連なり愛したからです。

人間は時間を抱いた孤独な存在ではあるけれど、それと同時に、明日に染まった現在であり、願望であり、ヴィジョンであると思います。私とは、始まりも終わりも知らない、いつも知りつつある存在だと思っています。生と死の間で、たくさんの人と出会い、たくさんの考えや価値観に触れ、愛し、真に生きているということを実感しながら、未知なる自分を発見し、変化してゆく存在だと思うのです。

去年の暮れに私は光の夢を見ました。窓のない小部屋にいる私は、なぜだか来客があることを知りました。すると、掌ほどの小さな窓が現れて、私が小窓を開けると、部屋が光で満たされました。ふいに客の訪れを感じて振り向こうとした途端、私は目が覚めました。それをレーナ・クルーンに話したところ、「それはまさに今書いている小説のラストシーンよ」と言って、私たちはお互いに驚き、肉体では区切れない魂の繋がりを感じました。

ベッドのかたちは違うけれど、眠気と静寂のなかで外部の新しい訪れを待つ浮遊する哲学者に、現代のオブローモフを重ね合わせます。懶惰でありながらも、オブローモフには「すべてのよきものに対する深い同情と好意(ゴンチャロフ作 米川正夫訳『オブローモフ(中)』岩波書店 二〇〇七年)」がありました。浮遊する哲学者も、人と関わり、クライアントを受け入れました。私は一人では立てない。相手あってこそ、他者の眼差しがあってこそ、私は存在する。未来が見える夫人も、暗所恐怖症も、無限の宇宙に触れた宇宙飛行士も、ニヒリスト歯医者も、宇宙を纏った少女も、私にあらたな存在の仕方を開示しながらも、もしかしたら彼らの生き方も私にもあり得るのかもしれないという、私のあらたな在り方の発見でもあります。ですから、私も含めて、彼らは分化された全体なのだと思います。その全体に触れたくて、哲学者は生と死、現実と夢、いっさいの矛盾が解消される一点に向かいました。飛躍は空虚に向けて、あるいは十全なる存在に向けてなされるとオクタビオ・パスは言ったけれど、消失点に、至高点に、あるいは、無の光に、未来を啓示するイメージがあると思ったのかもしれません。思考の基盤であり限界でもある概念という重力に抗って、始まりに触れたかったのかもしれません。

それは緑に至るジンテーゼだと私は思います。私とは、明日への綜合であり、未来の種子です。緑は、光と水が出会ってやっと生まれる。色だって、黄色と青が結ばれて緑になる。ゲーテはそれを光と闇の結合だと言いました。花芽をつけるまでに無数の葉をつけるものもあります。朝顔や紫陽花がそうです。五月に蒔いた枝垂れ朝顔の紅ちどりは、一昨日、ようやく花芽をつけました。自分のなかの緑という他者は、出会うたびに明らかになります。二つの時間の衝突によって生まれる飛躍的な隙き間こそが、まだ語られていない私の物語であり、可能性なのだと思うのです。

(文 末延弘子 『偽窓』(2010、新評論)より)


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