KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

翻訳家の日本語表現

末延弘子

「伝承の途中」

「書く」という表現をしているとき、私はなぜ書きたいのだろう、そんなことをよく思います。口承伝承による昔話をご研究なさっている小澤俊夫さんは、「私たちは伝承の途中にいる」とおっしゃいました。私は、私たちは始まりも終わりも知らない、間、にいると思っています。人間は時間を抱いていますから、いつかは死に至るわけですが、私たちが知っているのは、その間の途中です。その間に、たくさんの人と出会い、たくさんの考えや価値観に触れ、愛し、真に生きているということを実感します。私は、出会いを通して、たくさんの情報と有機的に関わり合いながら、なにかを、私なりに伝えつづけているのだと感じています。

では、そのなにかとは一体なんなのか。それは、美しいと感じる心なのかもしれません。感動する心です。文芸評論家の小林秀雄さんは、「花が美しいのではなく、美しいと感じる心の動き」とおっしゃいましたが、私を飛躍させ、私に語らせる、この心は、想像力とも思いやりとも言えます。感動するということは、とても積極的なことですし、とても開放的で、とても健康的で、私ではない他を思いやっているからこそ、育まれるものだと思います。

感動の表現方法は人それぞれです。ある人は踊り、ある人は歌い、ある人は言葉にします。感動することは個人的な体験ではあるけれど、社会的なものでもあると思うんです。個人から出立しながらも、社会に溶けこむ力があり、歴史を生き抜く力がある。それはきっと、感動は相手あってこそ生まれるものだからです。それが、神話や昔話といった古典として、能や茶の湯といった伝統として受け継がれてきているのだと思います。私は、今、自分の言葉を通して、私の主観的な美の解釈ではありますが、感動する心を伝えつづけてきていることを、心からありがたいと感じています。

言葉に至るまで

私は、はじめから訳者になりたいと思っていたわけではありませんでした。しかし、フィンランドの大学院時代に出会った、フィンランドの現代文学を代表する作家であり哲学者でもあるレーナ・クルーンのファンタジー『タイナロン』(新評論)の世界に触れ、これを伝えたいと思いました。世界へのアプローチの仕方に、心が振幅するかのような、深奥から駆動してくるような、そんな感動を覚えたからです。私という存在は、一人で立っているわけではありません。相手あってこそです。他者の眼差しなくして私はなく、皆のおかげで立っていられると思っています。ですから、世界は多くの解釈から成り、それらが有機的に現在をつくっているというクルーンの世界観は、とても東洋的で、日本人である私に強く近しく響きました。

物語への入り口は一つではなく複数あっていい、と私は思うのです。そんな複数性や多義性が、フィンランド文学にもあります。クルーンのファンタジー作品だけではなく、トーベ・ヤンソンのムーミン物語や、フィンランドの国民的人気児童書「ヘイナとトッスの物語」シリーズ(講談社)、「リストとゆかいなラウハおばさん」シリーズ全七巻(小峰書店)にも、多点同時的な世界観があります。とりわけ、国民的人気児童書としてご紹介した両シリーズは、ノポラ姉妹という二人の視点から描かれていますから、出発点から複数ですし、どのキャラクターが主人公といった優位性はなく、どのキャラクターからも物語に入りこめる許容性があります。ですから、読めばきっと、お気に入りのキャラクターが見つかるはずです。

では、この世界をいかにして伝えるのか。文学の翻訳にかぎっていうならば、私は対訳することはありません。なぜなら、言葉は想いのかたちだと思っているからです。想いとは、言葉の彼方にある手の届かない「意味」です。想いというのもとても個人的な体験ですから、言葉という狭い世界では表現しつくせないと思っています。

私は、言葉に至るまでを大切にしたい。その過程を可能なかぎり汲みとって、日本語というシステムで生かしたい。なぜ彼女はこの言葉を選んだのか。なぜ否定文ではなく肯定文で言ったのか。この言葉は「適当」がいいのか、「ふさわしい」がいいのか、「ぴったり」がいいのか。AからBに行くまでに、CやD、EやFといった表現方法があってもいいと思うのです。そこにこそ、数学的自由とも言うべき想像力と直観が試されますし、訳者の自由があると思っています。

引いて、開いて、和様化する

私は、日本という方法で他者にアプローチしています。他言語であれ、自分の想いであれ、それらを訳すとき、私は自分のなかで和様化しています。では、和様化するとは、どういうことなのか。たとえば、日本人が漢字を平仮名にしたように、英語を和製化したように、編集していくということです。

日本には引き算の美があると思っています。消去しながら展開するといいますか、引いてイメージさせるといいますか。たとえば、芭蕉が俳句の余白に語られない意味を込めたように、滲ませ暈して線を消し主客の境をまぎらかす水墨画のように、茶器の織部の想像空間はズレているからこそ生まれるように、消しつつイメージさせるのが日本の表現方法だと思うのです。

ですから、想いのかたちである日本語もまた、引いて豊かになると思っています。日本語というのは、主語を省いて述語で在りようをイメージさせますから誰のセリフかわかります。言葉の仕草から人物の性格や立場すら見えてきます。主語がなくても、さまざまなアイテムで一つを展開していく方法は、私たち日本人の世界の捉え方に由来しているような気がします。主人と客だけでなく、しつらえ、ふるまい、もてなしも関わり合って一期一会に結ばれる茶の湯のように、出来事というのは多くと関わり合って生起します。だから一つでは説明できない。そんな禅的な考えがあるからでしょうか。「手を打てば、はいと答える、鳥逃げる、鯉は集まる、猿沢の池」という歌がありますが、同じ一つの音を聞きながら、こんなにも受け取り方が違う者たちが、同時に存在している。この同時性は西洋にはありません。西洋では存在の有無を明確にしたがります。「あれか、これか」と一方を否定して前進しますから、時制も統一されています。日本は「あれも、これも」と包み展いて肯定しながら進んでいきますから、過去も現在も未来も一緒くたであっても、ちっともおかしくないですし、そのほうが自然に読めるのです。

また、日本語の一人称がバリエーションに富んでいるのも、少ない言葉で多くを伝えることを可能にしています。「わたし」なのか、「わたくし」なのか、「あたし」なのか、「オレ」なのか。選ぶ言葉一つで、男性や女性、年齢や人となり、といった情報が伝わってきます。また、漢字にはたくさんの情報が折り畳まれていて、意味のリンクが伸びていますから、最小限に在りようを説明できます。たとえば、「一匹」と言えば、魚あるいは昆虫で、きっと動いているのだろうと想像できます。「さらさら」、「ざらざら」、「どんぶらこ」といったオノマトペや、「枚」、「本」、「丁」、「献」、「篇」、「連」、「柱」、「首」といった数え方や単位は情報の補足をしてくれます。

私は、大人向けの文学から出発しましたが、数年前から子どもの本を訳したり書いたりする機会に恵まれるようになりました。子どもの本は、私が日本人であることをより強く認識させます。子どもの本では漢字を平仮名に開きます。漢字の視覚的な効果はなくなりますが、平仮名に開くと音が出てきます。耳の文字になるわけです。漢字は、そもそも中国からやって来た外の概念ですから、内なる日本を表しきれません。平仮名は五感を刺激します。音や匂いや肌触りが出てきます。日々の生活に密着しているので、自分との関わりを強く感じて実感が湧いてきますし、より身体性をともなって伝わってきます。オノマトペが増えますから、リズムとイメージが生まれ、言葉が一義的な束縛から解放されていくような気がします。「ながめ」は「眺め」でもあり「長め」でもある。「さいた」は「咲いた」でもあり「裂いた」でもある。耳に頼って存在の仕方を想像させるので、子どもの本では、愛誦されるようなテンポとリズムを大切にします。

心の場所

引いて、開いて、和様化し、私は日本人として表現してゆく。それが、もっとも私らしい。そんな私の内なる日本に向き合えたのも、私という存在が縁起によって成り立っていることに気づいたからです。「真に生きるということは出会いである」とマルチン・ブーバーは言いましたが、私は出会ってこそ大きくなってゆくと思っています。出会いは、私の世界観を問い直し、現実に対する認識を試し、あらたな解釈を開示してくれます。それはつまり、未知なる自分の発見でもあります。だからこそ、感動する心が生まれるのだと思います。

そんな私の感動が伝わったと強く感じたのは、読者からの声が届いたときでした。読書の虫だという小学二年生の女の子が、「リストとゆかいなラウハおばさん」シリーズの第一巻『なぞのきょうはくじょう状の巻』を読んで、「本、読んでて、はじめておもしろい」と思ってくれたのです。そのあと一気に七巻まで読破し、「読書するひと」が将来の夢だと言ってくれました。さらには、夏休みに渡芬して、世界携帯電話投げ大会の団体戦フリースタイルの部で優勝したというエピソードも語ってくれました。同じく『なぞのきょうはくじょうの巻』を読んでくれた小学生の男の子は、「いつ読んでもあきなくて楽しい!」と読者アンケートに書いてくれていました。これを読んだときほど、私の感動が伝わったと感じたことはありませんでした。私もそのように感じたから、訳したいと思ったのです。また、ある小学生の女の子は、いつも大好きな三冊を枕もとに置いて眠ると言います。その一冊が「ヘイナとトッスの物語」シリーズだと言ってくれました。

心とは人と人の間にあるものだと私は思っています。人と人の間に生きつづけるもの、伝えられてゆくもの、それが感動する心です。それはまた、出会って知りうる未知なる自分の発見です。発見は、相手なくしてできません。その相手は、自然であるかもしれない。愛犬であるかもしれない。恋人であるかもしれない。異なる文化であるかもしれない。二つの時間の衝突によって生まれる飛躍的な隙き間こそが、まだ語られていない私の物語であり、可能性だと思うのです。その自分の可能性に気づくきっかけの一つが、私の言葉であったなら、これ以上の幸せはありません。

(文 末延弘子 2009年11月18日(水)学研教室大分事務局指導者研修会 於 大分第一ホテル)


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