KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

眼差しに依って立つ

今回の「北欧に学ぶ」という講座ができたのも、北欧がまさに、この情報社会を多様な方法論で豊かに生きているからだと思います。そして、その牽引国の一つであるフィンランドが、ますます注目されるようになったと、思わずにはいられません。高品質で機能的な食器やインテリアデザイン、学習到達度調査(PISA)で優秀な成績に導いている教育制度、熱心な研究とたゆまぬ挑戦あってこそトップをほこる先端技術に、世界が関心をよせています。それらはすべて、情報を上手に編集し、環境と関わりながら、その都度あらゆる方法を展開している所以だと思います。

「フィンランドには木と頭がある」とよく耳にします。環境と知識というのはとても大切だと思います。教えることや伝えることは同じでも、どんな環境で教えるのか、そして、誰が教えるのかの方がとても大事です。これは、数学者の岡潔さんもおっしゃっていました。導き方次第で、あるいは、媒体次第で、私たちはいかようにも変容します。私というのは存在の方法で、表現のバリエーションだと、私は思っています。また、フィンランドを代表する企業「ノキア」の携帯電話端末や「リナックス」のソフトウエアも、フィンランドの代名詞となりましたが、始まりは人の頭です。情報があまねく行き渡るようになった現在ですが、それらがどんなにたくさんあっても、そしてどんなに素材が同じでも、それらをいかに読み解き、いかに組み合わせるのか、それは私たちの想像力にかかっています。知恵が大きな力になるというのは、フィンランドの民族的叙事詩『カレヴァラ』の賢者ヴァイナモイネンの教えでもありました。

フィンランドに触れて十数年が経ち、フィンランド文学を訳し始めて十年近くになります。最近になってようやく、なぜ私はこれらを訳し、そして訳したいと思ったのか、訳すことで私は何を知りつつあるのか、といったことを考えられるようになりました。こうやって振り返り、訳したフィンランドの文学の諸作品に向き合ったとき、これらは確かに『カレヴァラ』に連なるものだと思いました。『カレヴァラ』以来、フィンランド文学が受け継いできたものがあるように思ったのです。記憶や情報は生きています。それらは表現方法を変えながらも在り続けるものです。『カレヴァラ』は、エリアス・レンロート(1802-1884)という人が口承で歌い継がれた詩を採集し、天地開闢から始まる神話に編み上げた物語です。さまざまな英雄が登場しますが、大気の乙女イルマタルの膝に産み落とされたカモの卵から生まれたヴァイナモイネンは、たいへんな叡智を備え持っています。生まれながらにして老賢者で、物事の起源を歌える吟唱詩人で、森羅万象を酔わしめるフィンランドの民族楽器カンテレの奏者でもあります。戦いには武器でなくモノやコトの由来を吟じ、さらなる知識を求めて冥府へ下る。美しい乙女に求婚するために、鍛冶のイルマリネンに塩や粉や貨幣をもたらす秘器サンポを造らせる。しかし、サンポは海底に沈み、やがて新たな王がカレヴァラに生まれたのを契機に、カンテレと歌を残して立ち去ります。

『イリアス』とも『ニーベルンゲンの歌』とも違う『カレヴァラ』に、私は東洋的なアプローチを感じています。では、何へのアプローチなのか。自然あるいは永遠の求め方が一点集中的ではなく、多点同時的だということです。このアプローチの仕方に、私は『万葉集』や『古事記』といった日本的なものを感じます。複数の詠み人の歌から成りつつも、個々人の名や身分は全体に奉仕し、レンロートや大伴家持という優れた編集者によって一つの物語へ像が結ばれる。混沌とした未分の状態から天地星辰が生まれ、万物を生成する産霊を信じ、それらに感応し、尊ぶ、西行的なかたじけなさが通底しています。鳥も獣も人間も融通無礙に空海的に響き合う、建築家の磯崎新さんの言葉を借りますと、イセ的な空間があります。それは、形ではなく気配を求める空間です。過去、現在、未来を貫き在り続ける不死なるものへの敬虔な気持ちから、日本は八百万の神々を信じ、フィンランドも水や森といった自然界の現象に神聖なるものを見てきました。この気持ちは、仏教が入ってきた日本でも、キリスト教が入ってきたフィンランドでも、特定の宗教観を超え、形を超え、胸中の風景としてあるように思います。

オギュスタン・ベルクは『風土の日本』という著書で、日本は自然を最高の価値に置いていると言い、建築家の丹下健三さんは、日本人は石や木や水といった現象の中に精神の象徴を求め神像を見ると言いましたが、環境や外部との連続性を重んじるフィンランドの姿勢に、私は日本の自然観を重ね合わせます。何が存在するのかではない。存在の有無でもない。それはいかに存在し、それに私たちがいかに関わっているのかという姿勢が、フィンランドは『カレヴァラ』から、日本は『古事記』から、在り続けているように思います。

今年で日本とフィンランドが修交90周年を迎えるのも、フィンランドで『千と千尋の神隠し』が支持を得ているのも、日本で『ムーミン』が他国を凌いで絶大な人気を誇っているのも、神話世界のヴィジュアライズ、つまり、不可視なるものの可視化の方法が似ているからかもしれません。『ムーミン』は40カ国語以上に翻訳されているフィンランドを代表する文学作品の一つです。ムーミン作品は、1945年から1980年にかけて画家であり作家であるスウェーデン系フィンランド人のトーベ・ヤンソン(1914-2001)さんによって書かれた児童書です。しかし、児童書という枠に留まらず、後期作品は哲学的な深い思索に富んだ内容で大人の読者も魅了しました。

フィンランドはスウェーデンとロシアという両国に支配されながらも、不屈の精神と折れることのない民族意識で1917年に独立しました。ムーミンが書かれた時代背景には対ソ戦(冬戦争1939-1940、継続戦争1941-1944)がありました。これらの戦争でトーベの親友や弟が負傷し、トーベは深く傷つきました。自由とは獲得するものなのか。いや、ちがう。自由とは受け入れることだと、私はムーミン作品を読んで思いました。トーベはきっとそれも物語を通して伝えたかったのだと思います。

ムーミン谷の住人は、たとえば、ムーミンパパの捨て子ホームからの脱走や灯台のある島での暮らしといった冒険や、彗星、洪水、嵐、巨大な動物、冬、飛行おに、孤独で不器用なフェミニンなお化けのモラン、電気を帯びた小さな白い生き物のニョロニョロといった脅威に、つねに晒されています。それらの不安要素や出来事はムーミン屋敷の外部である森や浜辺といった自然で起こり、それらを通して、コミュニケーションすること、共感すること、他人に嫌な思いをさせないことを学びます。ムーミン作品には、およそ60ものキャラクターが登場します。私の主観ではありますが、これらはすべて、トーベの、あるいは、私という存在のバリエーションなのかもしれません。穏やかな優しいムーミントロール、冒険好きのムーミンパパ、理解力と包容力のあるムーミンママ、これらの核家族を軸に、多彩な趣味を持つヘムレンさん、コンプレックスに悩むフィリフヨンカ、臆病でちょっぴり貪欲なスニフ、好奇心旺盛で態度の大きなちびのミィ、所有しない自由人のスナフキン、聡明な思想家のおしゃまさんといった、人間とも動物とも明確に定義できないものたちが登場します。トーベがかつて来日した折、「ムーミンとは何ですか」との問いに、トーベは「存在するもの」と答えました。では、これらの、目には見えないけれども確かに在るもの、定義されないアンフォルメルは、何によって存在するのか。それはきっと、読者あるいは外部の眼差しに依って存在し、読むたびに変わり続けてゆくもののように思います。すべてがとっても曖昧で、けれどもそれが私を安心させるのだと、『ムーミン谷の冬』でおしゃまさんをして言わしめた言葉は、色即是空の在り方を思い起こさせます。

ムーミン屋敷のように、実に多くの人々が出入りする館があります。それを、現代フィンランド文学を代表する作家であり哲学者でもあるレーナ・クルーン(1947-)は『蜜蜂の館』に著しました。レーナ・クルーンは、夢と現実のあわいに揺れる諸々の世界を叙情的に繋ぎ、生きとし生けるものたちへの温かい眼差しを忘れず、存在することの意味と可能性を問い続ける、ドイツ系フィンランド人の作家です。北欧閣僚評議会文学賞候補にも挙がった蜜蜂の館は、町の中でもとりわけ古い建物の一つで、取り壊し寸前の危機にあります。かつては心の病の診療所として機能していて、今はさまざまな独立した群れをなす団体の集会所になっています。爬虫類学同好会、預言者会、呼吸だけで生きる呼吸者会、フロイトに傾倒している夫人が主宰する劇団といったいっぷう変わった団体が出入りし、地下にはハイブリッド型ロボットと共生している失業中の神学者が住んでいて、地上階にはポルノショップ「快楽」があります。このさまざまな団体を、アッシャー症候群という視覚と聴覚を患う掃除パートの美しい女性が繋いでいきます。彼女が掃除に訪れるたびに、未知なる世界が開示され、私たちの認識を試し、その限界を問います。

主人公の「わたし」が所属しているのは、法医学部生が立ち上げた「移ろう現実クラブ」です。クラブのメンバーが体験した物理的には説明しきれない不可解な出来事が語られながら、物語は一つの世界へ編み上げられてゆきます。誰もがそれぞれの心でそれぞれの側面から世界を見る。自分の中に見えたもの、それは疑いなく、その人にとって本当です。ただ、見えたものが正しいかどうかではなく、どうしてそれが見えたのか、いかにそれは見えたのか、そして、それはその人にとってどんな意味をもたらし、いかにして他者と分かつことができるのか、それをひたすらに問う一冊です。

世界は多くの解釈から成り立っている多様で一途なものであり、私とは環境と関わらずして存在しえない函数的なるものだということを、昆虫世界から"あなた"宛に28通の手紙が届く『タイナロン』からレーナ・クルーンは一貫して問うています。これは、アメリカで世界文学幻想大賞候補になりました。デカルト的な考察から始まるけれども、存在を物質で区切らず、関係や出来事で捉え、周囲との連続性を忘れず、終わりでなく始まりを見る。この無常観や縁起にも似た考えは、ホーカンという同名の複数の主人公が終末論を説く『ペレート・ムンドゥス』や、睡眠と覚醒の境界を揺れ動きながらアイソレーションタンクの中でカウセリングする哲学者を主人公にした最新作『偽窓』に顕著です。

私がいつも思いますのは、文学にしろ絵画にしろ、物語への入り口は一つではないということです。私が日本人だからでしょうか、あるいは、フィンランドという外に出てみて、自分の内なる日本的なものを強く意識するようになったからでしょうか。山水画のパースペクティブの取り方にしてみましても、伊勢神宮などの和様建築にしてみましても、焦点は一つではなく、正面を消したゆえにいかなる角度からもアプローチできる余白があり、多様な同時性がある。本当に大切なものへのアプローチの仕方は西洋と東洋では違っていて、形への意志はまず線を引くことから始まるけれども、西洋はその線を足し、他との差異をつけ、矛盾を排除する。そして、一つの光源から明快で不動なる解答を提示する。しかしながら、東洋は引いた線をいかに消すかに躍起になる。線を滲ませ、重ね、遊ばせ、溶けこませ、雪舟的な線のダイナミズムと等伯的な余白から出発する。松岡正剛さんの言葉をお借りすれば「想像の負」から出発し、岡倉天心さんによれば「故意に何かを仕立てずにおいて想像のはたらきで完成」させてゆく。音楽にしてみましても、西洋は音の滴が横に流れてゆく感じがするけれど、東洋は音の房が縦に時間を斬ってゆく。聖域には西行的なかたじけなさで逸れながら近づき、隠されて見えないものに思いをかける。そんな東洋的なアプローチを、私はフィンランドの文学にも感じるようになりました。「わたしとはわたしたちである」と『蜜蜂の館』に書いたレーナ・クルーンや、神は単数ではなく複数あるという『カレヴァラ』に連なる作品が、私にしっくりきている理由もこんなところにあるのかもしれません。

複数の視点からなる世界はフィンランド文学の特徴であると言えます。レーナ・クルーンのほかにカリ・ホタカイネンやハンネレ・フオヴィやシニッカ・ノポラとティーナ・ノポラの作品が代表的です。カリ・ホタカイネン(1957-)はコラムニストや記者出身らしく、リズミカルでコミカルな文章、即妙なユーモア、カリカチュア化された細やかな人物描写に長けています。家族の絆を守るために奮闘する主夫マッティ・ヴィルタネンを主人公とした『マイホーム』(2002)は空前のヒットとなり、北欧閣僚評議会文学賞(2004)を受賞し、本国で映画化されたホタカイネンの代表作です。うっかり妻に手を上げて離婚をつきつけられたマッティは、崩壊しそうな家庭をもう一度取り戻そうと、 長年の妻の夢であったマイホームを手に入れる決意をします。胸に心拍計をつけ、手に双眼鏡とメモ用紙を持ち、とり憑かれたように一軒家を探します。そして、かつて前線で戦った退役軍人の家を見つけると、家庭の戦線で戦う自らを退役軍人の生き様と重ね合わせ、その家を手に入れなければという強迫観念に駆られます。そして行動は逸脱しエスカレートしていきます。主人公のマッティ、不動産仲介業者、妻、退役軍人といった複数のナレーターがそれぞれの視点から事件を語る構成は、オルハン・パムクの『わたしの名は紅』の空間構成に似ています。

同じく、視線のやりとりによって物語を構成するハンネレ・フオヴィ(1949-)は、フィンランドを代表する現代児童作家です。精緻な観察眼で物語世界を描き、美しく情緒ある語り口が特徴で、国際児童図書評議会(IBBY)オナーリストやアストリッド・リンドグレン記念文学賞候補にもたびたび挙がっています。国際アンデルセン大賞候補に挙がったヤングアダルト作品の『羽根の鎖』は、鳥の言葉がわかる少女エレイサと鳥世界の守護神の息子タカの成長物語です。ときにエレイサが語り、ときに人間界を代表する仮面をつけた道化師の少女が語りながら、物語は展開します。ある日、天高く壮麗に舞うタカを目にし、惹かれるままに両手を伸ばして肢をつかもうとします。しかし、その瞬間、タカの鋭い爪で両目を奪われ、失明してしまいます。二人は鳥世界の裁判にかけられ、お互いの軽率で省みない好奇心から生じた罰として、羽根の鎖でつながれることになります。二人は羽根の鎖の魔法を解くために一緒に旅をしながら、他人を受け入れる気持ちを育みます。

ムーミン谷や蜜蜂の館ほど出入りする人物は多くはないけれど、個性的なキャラクターがたくさん登場する大人気シリーズがあります。シニッカ・ノポラ(1953-)とティーナ・ノポラ(1955-)姉妹の「ヘイナとトッスの物語」シリーズと「リストとゆかいなラウハおばさん」シリーズです。姉妹の作品は、『ハリー・ポッター』を抑えてフィンランドの図書館で最も貸し出されている児童書です。IBBYのオナーリストを受賞したり、本国で映画化や舞台化されたりして、子どもから大人まで十数年以上にわたって読み継がれ、ムーミン以降の古典的作品になりつつあります。

姉妹という二人の視点ゆえに楕円的な躍動感があり、児童書のストーリー展開に重要なダイアローグはユーモアに溢れ、ダイナミックで生き生きしています。「ヘイナとトッスの物語」は、麦わら帽子がトレードマークのしっかりものの姉のヘイナ、フェルト靴を履いたやんちゃな妹のトッス、いつも作品の追伸欄でしか登場しない、これまたやんちゃな弟のペッテリ、新しもの好きのママのハンナ、のんびりやのパパのマッティ、一家の隣人でぽっちゃりハデ好き料理上手で結婚願望の強いアリプッラ姉妹、熱心なのに詰めの甘いひょろめがね警官とでぶっちょ警官が繰り広げる、ドタバタながらも心温まる物語です。「ヘイナとトッスの物語」シリーズに比べますと、もう一方の「リストとゆかいなラウハおばさん」シリーズは日常的な要素が強いように思われます。ドラムとラップが大好きな心の優しい男の子リストとおっちょこちょいだけれど一所懸命にリストの世話をする空想好きなラウハおばさん、二人のアパートの隣人で平和主義者のミスター・リンドベリ、リストのガールフレンドのネッリ、几帳面で強面のエルヴィおばさんを中心に出来事が起こります。

両シリーズとも、いつも誰かの大いなる勘違いから事件が始まります。その事件は、たくさんの人々と出会いながら有機的に大きく膨らんで、緊張と不安と前進を感じながら幸福に結ばれます。なによりも、出来事は相対的ですから、どのキャラクターも主人公になりうる許容性があり、どの視点からでも物語に入ることができる作品です。

世界というのは、私あるいは読者あるいは観測者の位置や運動によって、見え方が異なります。そしてまた、逆に、私たちの関わり方によって世界は変わります。私という一個の存在はつねに世界と連なるもので、周囲との関係によって浮かび上がり、絶えず変わり続けるものです。存在をそのような出来事として捉え、プロセスとして捉え、現在性として捉えている日本人にとって、フィンランド文学はとても身近に感じます。フィンランド語には未来形がなく、未来のことは現在形で表します。つまり未来は現在の中にあるということです。私たちが知っているのは終わりでも始まりでもなく、有機的なプロセス、生と死の間にある移ろう現実です。免疫学者の多田富雄さんは、自己は不確定の上に成ると言いましたが、私は、私とはつねに編集過程にあると思っています。この移ろう現実の中で、私たちの存在の仕方や方法を問う、そんな側面を私はフィンランドの文学に強く感じつつあるこの頃です。

文 末延弘子/立教大学全カリ総合B群科目「北欧に学ぶ―知識社会を豊かに生きる力-」(2009年4月22日水曜日)立教大学において


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