KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

美しいプラネット

五月だというのに、ヘルシンキは雪片が舞うほど冴え返り、例年にない二度目の寒の戻りに春の花冠はいつ咲こうか戸惑っているようだった。クロッカスもラッパスイセンもまだ蕾のままで、フィンランド湾の葦も立ち枯れて足元でカサカサと音を立てた。けれど、ひとたび春の雨に濡れた花々は目が覚めたかのように綻びはじめるから不思議だ。

花々は、いつ、どこで、どんなサインをもらって、芽吹いて、種を残して、ふたたび美しく生まれるのだろう。花々に限らず循環する自然の記憶と神秘にはほんとうに圧倒される。

いまや日本でもその名が知れわたるようになったフィンランドのテキスタイルデザイン会社マリメッコ(marimekko)のプリント柄には、自然の織り成す造形に魅せられたものが数多くある。マリメッコは、1949年にアルミ・ライタのもとで設立されて以来、開放的な女性を象徴するかのようなデザインを提供しつづけ、フィンランドのテキスタイル業界をはじめ、海外にも旋風を巻き起こし続けてきている。

マリメッコの代名詞とも言えるデザイナーのマイヤ・イソラによるポピー(Unikko)柄をはじめ、氷河期時代の記憶を想起させる花崗岩や玄武岩をイメージした石(Kivet)柄、オレンジ(Appelsiini)やパイナップル(Ananas)、カタバミ(Ketunleipä)や蘗(Verso)をモチーフとした柄は、果物の果肉の緻密さや植物の葉群の端整さがあり、井戸(Kaivo)や大波(Maininki)の波状構造に息を呑む。これらのデザインに特徴的なのは、大胆なカットと鮮烈な配色、そして目を引く幾何学模様だ。

わたしたちはそういった自然の不思議や奇跡に感動するだけではなく、そこからさまざまなヒントを得て恩恵を受けている。ミツバチの六角形の巣から強度と軽量を応用したハニカム構造は、スキー板、航空機の翼の内部、そして天体望遠鏡の基盤に反映されているし、ヤモリの足裏の繊毛から強力な粘着テープが生まれ、サメの皮膚構造を模して表面摩擦抵抗を減少させたスイムウエアに驚き、モルフォ蝶の光干渉効果をもつ鱗粉から代替染料の可能性を探り、蓮の葉の表面にある毛羽から撥水繊維を生み出し、さらには蛾の目玉を模した微細周期構造は光ネットワークや高輝度ディスプレイといった光素子機能に発展をもたらした。

美しさには、ある種の数学的な規則性や連続性があるように思う。「ユリの花には三枚、キンポウゲには五枚、デルフィニウムには八枚、ポットマリーゴールドには一三枚、アスターには二一枚、フランスギクには三四枚」(『ペレート・ムンドゥス』より)、とホーカンは花弁の整然たる連続性を発見し、その轍を自然界や宇宙や社会にまで見わたした。実証と経験から数学的な裏づけをもって自然現象を捉えたニュートンにとっても、「自然は数学の言葉で書かれた聖書だった」(藤原正彦著『心は孤独な数学者』より)。 そんな美しい自然の威容が、いまにも目の前で地球の悲鳴とともにガラガラと音を立てて崩れそうだ。その悲鳴を受けて、ホーカンは終末論(ジョン・レスリー著『世界の終焉―今ここにいることの論理(The End of the World: The Science and Ethics of Human Extinction)』に参照)を唱え、イスマエルは千年王国思想(ダミアン・トンプソン著『終末思想に夢中な人たち(The End of Time)』に参照)を唱えている。地球の緩衝容量とか、大気や水や土壌や動植物間のエコロジカル・バランスとか、生態系の保全や調和とか、不安要素は次から次へと沸いて出る。環境問題だけではない。あちこちで勃発する社会的な崩壊は、エコロジーの崩壊を煽っているように感じてしまう。

地球のエコシステムの崩壊を危惧する急進的なフィンランドの環境保全運動家にペンッティ・リンコラ(Pentti Linkola, 1932-)がいる。猟師であり思想家であるリンコラは、車を所有せず、ボートで漁をし、獲れた魚は馬車で運んで、エコを有言実行している。人類が豊かな暮らしを求めて行ってきた大量生産や大量消費や大量廃棄を見なおして、地球の温暖化、オゾン層破壊、天然資源の枯渇といった地球の悲鳴に耳を傾けようと叫んでいる。

「人類は終着点に来ているようだ。わたしたちはエコカタストロフィーにさらされて、嵐の目のなかに立たされている。どんな自然科学者も未来学者も、わたしたちに残された時間はおそらく三〇年から一〇〇年としか言いようがないだろう。(・・・)生物学者、人口統計学者、哲学者、そして思想家が個別に必死になって警鐘を鳴らしたり、何百人というノーベル賞受賞者たちが経済成長をすぐに絶つべきだと書いたりと、世の中は深刻な警告でいっぱいだ。なかでも現実とともに鬼気迫るのは人口危惧種の増加である。絶滅危機の増加はすでに始まっていて、衰えをみせない。直感や黙示に基づいていた昔の世界終末の予兆は古びたジョークと言えるかもしれない。しかしながら、いまやその予測は科学的な事実や認識や統計や数字にもとづいている。もはや、古びたジョークではないのだ」(「われわれは生き残れるのか?―ある未来のかたち」ペンッティ・リンコラ著『生命ははたして勝てるのか(Voisiko elämä voittaa - ja millä ehdoilla)』(2004)より)

「地球は生きています。そのことをわたしたちは忘れがちです。地殻がわずかに隙間をあけて一息つくだけで、大きな波は寄せては返し寄せては返します。そんな自然の前にあって人間は脆くも弱く、計り知れない苦しみを味わいます」(訳者に宛てた2004年12月31日付けのレーナ・クルーンの手紙より)

ヘルシンキの空に鏤められた星屑のようなシラーの深い蒼、ハナニラの陶器のような微光、ニリンソウの雪を割った白は確かな春を告げていた。茶褐色の胸を膨らませて歌うズアオトリを背にしたら、ふとフィンランドの夏の数え歌を思い出した。

ヒバリを見たら 夏まで一ヶ月
ズアオトリから 半月待って
ハクセキレイなら もう少し
ツバメを見たら 夏が来た

渡芬した初日、レーナ・クルーンの台所の窓際にはひまわりの双葉が陽光にむかって伸びていた。フィンランドを発つ最終日、双葉は四葉へ成長していた。「光と渇望」を秘めた芽に大輪の太陽を重ね映し、遠くはない夏を想った。

文 末延弘子 『ペレート・ムンドゥス』(2005、新評論)より


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