KIRJOJEN PUUTARHA
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席を譲る-末延弘子

わたしたちは、どこから来て、どこにあり、どこへ向かおうとしているのか。なぜ、わたしたちは存在するのか。その動向を知りたくて科学という方法論でアプローチしたり哲学したりします。真理というのはなかなかつかめなくて、でも、その究極の問いに答えを望みたくて、人は表現します。その表現方法はさまざまです。心の数だけあるとわたしは思っています。たとえば、ある人は色で、ある人は音で、そしてある人は言葉で表現するでしょう。わたしはきっと、言葉で表現したいのだと思います。言葉にこそ、わたしの魂がもっとも現前するような気がするのです。

翻訳するとき、わたしは無になります。自分という中心から逸れて席を譲ります。なんのために席を譲るのか。あらゆる世界を見るためです。無とは、あらゆる情報が媒介される場所ですから。世界というのは、多くの解釈からなる相対的なものです。世界へのアプローチは一つではなく、正しい世界の記述の仕方も一つではないのです。霜山徳爾の言うように、わたしたちは万象のまどろみの流れのなかの個々の夢の担い手です。随処に主為せば、立処みな真なりという禅の言葉があります。ここでいう主は、我を張る"われ"ではありません。自分がどこに立っているのか認識しながらも、環境に応じて自在に◯や□や△になれる"われ"です。わたしは、それを謙譲の精神、つまり、思いやりだと思っています。世界にはあらゆるアプローチがあるのだということに気づかせてくれたのが、フィンランドの現代作家であり哲学者でもある、レーナ・クルーンでした。

レーナ・クルーンの世界観に共鳴し、わたしは、いままでに五冊をご紹介できました。分かち合う世界、移ろう現実、それを構築していくわたしたちの可能性。認識の限界をいつも広げてくれる世界観に、わたしは大きな喜びを得ています。同じくらい大きな喜びを感じるのは、子どもの本に触れているときです。最近、子どもの本を訳す機会にたくさん恵まれるようになりました。フィンランドでも大人気の児童作家で、十年以上ものシリーズ本を複数手がけ、映像化や舞台化にもなっているノポラ姉妹の児童書を、近年、ご紹介しています。一つは、童話的な要素の強い「ヘイナとトッスの物語」シリーズ、一つはより日常的な「リストとゆかいなラウハおばさん」シリーズ。いずれも、ユーモアがあって、リズミカルな調和があって、幸福感があります。それから、フィンランドの現代童話の担い手であるハンネレ・フオヴィの「大きいくまのタハマパー」シリーズという幼年むけの読み物も、来夏にご紹介できそうです。

そして今、わたしは子どもの本をじぶんで書きながら、子どもの本に触れているときこそ、もっとも無になるのかもしれないと感じるようになりました。今までのわたしの尺度も速度もゼロになり、問題は、もはや大きいか小さいかではなく、遠いか近いかになります。遠いものをいかに近くに引き寄せるのか、いかに言葉を展くのか。おなじ一つの伝えたいことを抽象画で表現するのか、ポップアートで表現するのか。距離の取り方でずいぶんと表現がちがってきます。そして、それはとても挑みがいのある舞台だと感じています。

翻訳をとおして、わたしはじぶんの在り方を問うようになりました。わたしは、日本というシステムで物事を考え、東洋的な見方で世界にアプローチしているということを認識しつつあります。わたしは日本という風土に生まれました。それに感謝し、それを誇りに思います。フィンランドにはない湿潤と熱の国。そこから、風が生まれ、風が運んでくる金木犀の香りに無数に咲いているであろうオレンジの小花を思い、障子ごしや陰影ごしに光を捉え、大気の濃淡から対象の輪郭線を見てきました。直裁ではなく間接的に事象の移ろいを感受する姿勢、俳句のように部分から全体を想像する姿勢、この謙譲、この思いやり。これこそが、わたしの在り方の母型であり、振り返ってみれば、言葉が孕む心を訳すわたしの翻訳姿勢でもありました。

このわたしの東洋的なアプローチがフィンランド文学としっくりくるのはなぜだろう。そんなことも思うようになりました。きっと、世界の捉え方が似ているのだと思います。いずれの天地開闢説も混沌から始まりました。『カレワラ』は宇宙卵から、『古事記』は天地がいまだわかれない状態から、世界が誕生し、神格的存在がたくさん生まれました。また、いずれの文学の中心も詩歌です。それは、神性なものへの祈りであり奉納の歌です。ここでの神は単数ではなく複数です。日本人は自然現象に八百万の神を信じています。フィンランド人も森や湖に神性なものを見ます。フィンランド語の構造にも思いやりを感じます。主語のない文が多く、類い稀なる格変化はシンフォニックな調和を生みます。一つとして孤立する単語も、自分勝手に行動する単語もなく、全体で動いて意味を成すところに、わたしは深い感銘を受けました。日本でムーミンという曖昧な存在が受け入れられているのも、フィンランドでトトロ人気が高いのも、根源的存在の捉え方が通じあっているからだと思うのです。

翻訳とは、わたしの在り方です。間柄を考える有機的な運動です。わたしは、一人ではなにもできません、なににもなれないのです。周りと関わってこそ、わたしの意味は明らかになります。存在とは濃淡だとゲーテは言いました。わたしは、未知数の緑だと思っています。青と黄色がなければ緑になりません。光と水がなければ生命は生まれません。新しい命は結ばれてなります。「一は二を有し、二は一を開く」ように、たくさんの人と出会い、たくさんの考えに触れ、わたしは成長していくのだと思います。知っていることに麻痺せず、知ったことを伝え、これからも表現者でありたいと、このごろ強く思います。

文 末延弘子 / 日本フィンランド協会10月例会(2008年10月29日水曜日)日本フィンランド協会において


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