KIRJOJEN PUUTARHA
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イスネイスの夏

イスネイスの夏

見上げるようなエゾノウミズザクラの白い小花が、海風に乗って夏の香りを連れてくる。鼻孔を掠めるような仄かな甘い香りは、花弁とともに一陣の風に吹き上げられ、その梢は潮騒のようにざわめく。くっきりと浮き上がる綿雲は水面にその陰影を落とし、輻射される太陽熱に岸辺に生い茂る葦の穂先が金色に輝く。イスネイスの葦は四季折々に衣を変える。初夏、伸びやかにそよぐ瑞々しい青い穂は、晩夏になると次第にカサリと葉音を立てながら立ち枯れて金色に染まってゆく。

蔦の這う家、イスネイス著者レーナ・クルーンは、数年前から長閑な田舎町イスネイスに居を構え、ヘルシンキの自宅を行き来している。イスネイスは、かつては工業港として栄え、現在は貨物船がたまに姿を見せる静かな町だ。首都ヘルシンキから東に向かって、港町ポルヴォーまで国道をひたすら走る。イスネイスに家を購入してから運転免許を取ったという。生真面目なほど慎重にアクセルを踏む彼女の足は、くの字に曲がった古い街道に差しかかるとさらに緩む。あえて古い街道を走るのは、交通量がぐんと減るという理由もあるけれど、細い蛇行道沿いを彩る風景のすばらしさに感動するからだという。カーブを切るたびに、新たな景色がスライド写真のように次から次へと鮮やかに目に飛び込んでくる。果てしなく広がってゆく田畑、ときおり押しかぶさるようにフロントガラスを撫でる木々、そして、雄大な樫の並木道。車はいつしか砂利道を躓くように走ると右手に折れる。煉瓦色の屋根、白壁を伝う葡萄の蔓、大ぶりな白いチョウセンアサガオが芳しい匂いを放つ。見上げれば亭々とした白樺の巨木が天蓋を突き、そして、見据えた向こうにガラス張りの小ぶりな温室と青い海と空がある。そこがレーナ・クルーンの"風景"だ。

手製の温室の中は虫たちと花々の楽園だった。昆虫世界の不思議を詩体的に綴ったレーナの初期の小説『タイナロン(Tainaron)』を想起させるような温室。引き込まれるような空色を帯びたセイヨウアサガオに、お客たちが休む暇なく訪れる。モンシロチョウは何度もストローを伸ばしてはくるるっと巻き直す。黄色いお尻を忙しなく動かし小刻みにダンスするマルハナバチは、蜜の採集に没頭しすぎて私たちの存在に気づかない。その隣で、アサガオより強靭な螺旋状の蔓を伸ばしているトケイソウの花冠は、呑み込まれそうなほど華やかで印象的だ。フィンランド語ではトケイソウのことを「キリストの受難」という。三本のオシベが十字架で、その周囲を襞のように取り巻いている様子がイバラの冠のように見えるからだ。温室の中は青い匂いで充溢していた。ナスタチュームの橙色と黄色の花がコーナーを彩り、トマトやホオズキがアサガオを見上げるように熟れている。まるで薬剤師の温室に足を踏み入れたかのような、そして、レーナの心象風景に触れたかのような、なんともいえない喜びに私は震えが止まらなかった。

「あそこで育てているのは、ベニバナインゲンとカボチャとズッキーニ。ズッキーニはもう食べ頃だから、収穫して今日のスープにしましょうか。カボチャはヒロコの頭よりも大きいの。ああ、そろそろ雑草を取ってやらないとね」

囁くような小声で温室の外の畑を案内してくれるレーナは終始にこやかで、控えめで和んだ視線のその先には、動植物と自然の織りなす調和を見ているようだった。環境保全、動物愛護、そしてエコロジー生活に傾倒して実践している彼女は、人一倍、環境問題や世界情勢に敏感だ。つねに、自分のホームページやエッセーなどを通して意見を表明し続けている。数々の文学賞を受賞し、ヨーロッパ諸国やアメリカなどに翻訳され、二十数冊に上る作品群には、環境や世界の不安、そして、くず折れそうな道徳に対する彼女の一貫した姿勢や考えが表れている。エッセー小説『数学的な生物たち、もしくは、分かたれた夢(Matemaattisia olioita tai jaettuja unia)』(1992)でフィンランディア賞を受賞した際にインタビューでこう言っている。

「動物たちの知能やその伝達機能について、どれほど多くのことを知っているというのでしょうか。動物たちに思考する可能性がないと決めつけることはおかしいことです。人間が作り出した世界像の支柱の一つは、ホモサピエンスには比肩するものがいない、ということなのに、この種は生活環境や他のあらゆる生物の生命をも壊滅しようとしているのです。(・・・)ただ自然は休むことを知りません。そして、その動きを一つの種によって止めることはできません。汚染が悪化してゆくことは自然のサイクルから避けられないことです。けれども人間は、その有害を抑制することのできる唯一の種です。そこに人間の義務があるのです」

1993年1月15日付け アームレヘティ紙より

8月の食卓(右から2番目がレーナ・クルーン)ドイツ系のクルーン一族には代々、学者や芸術家肌が多い。詩人スオニオ(Suonio)として、またフィンランドの国民的叙事詩『カレヴァラ(Kalevala)』(1849)の研究者として名高いユリウス・クルーン(Julius Krohn, 1835~1888)を筆頭に、その娘であるアイノ・カッラス(Aino Kallas, 1878~1956)は作家でもありエストニアの外交官の妻としても活躍した。環境保全を主張するフィンランドの政党「緑の党」には、レーナの姪にあたる国会議員であり舞台演出家でもあるイリナ・クルーン(Irina Krohn, 1962~)が、また、ドキュメント映画監督および芸術大学教授カネルヴァ・セーデルストローム(Kanerva Cederström, 1949~)はレーナの従姉妹にあたる。レーナは、芸術評論家として活躍したアルフ・クルーン(Alf Krohn, 1913 ~1959)の次女として生まれ、姉に平面画家のイナリ・クルーン(Inari Krohn, 1945~)がいる。

姉妹仲が良く、その仲の良さは全国紙ヘルシンギン・サノマット新聞に取り上げられたほどだ。二人は、クリスマスや夏至や誕生日といった節目の祝い事でなくても頻繁に会っている。今思えば、私がレーナとお会いするときはイナリの家族とも一緒に過ごし、日本びいきのクルーン一家に囲まれて夢心地だった。レーナが児童書を手がける際にはイナリが挿絵を担当することが多い。イナリの作品は自然と動植物を中心に世界が繰り広げられる。イタリアやフランス、インドやタイを巡り、日本には二度訪れている。幼少時代の風景である群島や海や森が神秘的に描かれ、叙情的で繊細なタッチに光と空間が溢れている。そして、内部世界と外部世界が横糸と縦糸となって淀みのない潮流を醸し出す。そんなイナリの絵の世界は、摩擦することなくレーナの言葉の世界に溶け込んでいる。

レーナ・クルーンの言葉は明快で的確ながらも、詩情溢れる表現力をもつ。叙情的な言葉で幻想と現実をつなぎ、その境界線に揺らぎをもたらす。言葉は易しいのに、読後に訴えかけられる難しい何かを感じるのも、倫理学と形而上学が全作品の底流をなしているからだろう。物事の根本的な原理を追求し、人の精神世界や夢、可能と不可能、時間と無限、そして、真の現実と人工的な現実の接点に迫ってゆく。

『木々は八月に何をするのか』に収められた七つのショートストーリーは、いつ、どこで、遠くて近しいような現実が起こりうるかもしれないという可能性を秘めている。今、踏みしめている大地の内側に、果たしてもう一つの世界があるだろうか?刻まれてゆく時間は保存できるだろうか?何が普通で何が普通ではないのだろう?

嬉しくなると宙に浮かんでしまうインカや、影のないハンノに鏡像を持たないアンテロ。生い茂る葦から飄然と姿を現した黒服を纏った少年や、"この世界"の言語ではない言葉を話し、光よりも暗闇を愛するグリーンチャイルドたち。百年前に生きた黒服の少年を介して、歳月の歪みが葦の穂先のようにぐわんと揺れて現在と混在する不思議さがあり、地殻の下に埋もれた別世界の時空に触れる緊張感がある。

表題作では、"狂い咲きの薬剤師"が冬の温室で熱帯のジャングル世界を魅惑的に繰り広げている。植物は人間と同じように、それぞれに固有の名前があり、個性があり、そして意思がある。植物の叡智は、人間が培ってきた歴史の分よりももっと深く、もっと尊いのだ。では、奇妙な生物を求めて東奔西走する未確認生物学者が、最後に手に入れた回答とは何だろう?メガロドンよりも、エル・チュパカブラよりも、オルゴイ・コルコイよりも惹かれたものとは?ごく普通のものにこそ、普通ではない類稀な何かが潜んでいるのだ。

物語に鏤められた質問や回答は決して目新しいものではなく、私たちがいつの間にか記憶の片隅に押しやってしまった純粋な問いのように感じてならない。

自分の中の不確実な思いや不安について書くだけ、とレーナ・クルーンはいう。彼女の提起する不安要素はいくつかあるけれど、最も端的に、そして、顕著に現れているのが、小説『ペレート・ムンドゥス ― 破滅する世界(Pereat mundus)』(1998、2005邦訳予定)だろう。作品には、世界の終末を危惧しかねない不安要素が三六章にわたってちりばめられている。例えば、テロの危険性、人間を追い越しかねない超人的知能AIの目覚しい発達、崩壊するモラル、といったように。不安なことだらけで世界が破滅しそうな兆しは十分すぎるほどあるけれど、捨て鉢にならずに可能性を信じるのもレーナの強さだ。

前述した『タイナロン』や『木々は八月に何をするのか』でもそうだが、彼女の作品のモチーフとして昆虫や植物が取り上げられることが多い。この動植物たちは「生きる」不思議や強さを体現し、ひたすらに生を全うしている。『ペレート・ムンドゥス』の最終章「新生」には八月のひまわりが「生」のシンボルとして登場し、無限大の生の強さを象徴している。『木々は八月に何をするのか』でも生命の強さを易しく問うている。木々は果たして八月に何をするのだろう?冬を前に、葉を落として単に枯れてゆくわけではない。次の生命を宿すために再び新しく生まれるのだ。薬剤師もこう言っている。

「木々は八月に根をつくります。花の知識は種にあります。そして種は時の時計でもあるんです。そこには歴史があって、来る時代があるのです」

『木々は八月に何をするのか』より

今年の夏、レーナの温室の入り口に日本のカエデが植わっているのを目にした。日本に帰る私を思って買い求めたと聞いて、熱いものが胸に込み上げて泣きそうになった。乾いた粉塵とともにアカバナの白い冠毛が宙を舞う。道端に転がった樫の実の椀形の殻をひょいと拾い上げた彼女がにっこり微笑む。イスネイスの太陽を浴びたズッキーニは、生命の漲る色が投影されたかのように黄色くて眩しい。

イスネイスの夏が熟れてゆく。レーナ・クルーンの庭で、木々は根を伸ばし花は実をつけ、次の生命にその実を膨らませる。

(文 末延弘子 『木々は八月に何をするのか』(2003、新評論)より)


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