KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

それぞれのマイホーム

夢の家に期待するもの

都心部といっても、雲を突き抜けるような高層ビルはなく、空気は冴え冴えと澄み渡って霞み一つすら見えない。両手を広げたら宇宙に飛んでゆけんばかりに開放的で、足裏から伝う石畳は、フィンランド人の折れない精神力を物語っているように固い。

質実剛健なフィンランド人らしく、大きな買物については経済的な余裕も考慮に入れながら現実的に考える。住居センター(Huoneistokeskus)のアンケート調査によると、近年の傾向として、フィンランド人がドリームハウスに望んでいるのは、機能性、効率性、そして、空間の広さよりも質である。アンケート回答者の半数以上は、マイホームを持つことが夢であると回答している(2004年9月現在)。フィンランド人のドリームハウスの形成になくてはならないものとして、当然のようにサウナが格付けのトップに座っている。また、機能的な空間利用や利便性のあるシステムキッチン装備も希望リストの上位にある。ここで、興味深いのは、高齢者や一人住まいの希望リストでは一〇位と低いことだ。サウナの維持管理には、予想以上に労力と時間が要る。そのため、共同サウナの設置されている集合住宅や、最近では各部屋にシャワールームほどの一人用のホームサウナが備え付けられたアパートメントに住んでいるお年寄りも多い。

情報公開の時代に連れ添うように、住居に対する購入者の知識も情報量も多いので、建築技術のほかに、床暖房や機密性のある複層ガラスの使用といったエコロジカルなエネルギー使用に関連した事柄にも関心が集まっているようだし、場所に対する概念も変わりつつあるようだ。高齢者になるほど交通の利便性が好ましい場所を望む傾向はあるものの、マイホームを夢みる人たちにとっては必ずしも絶対条件ではないようである。職場に近い場所より、より良い住環境と快適さを優先したい考えだ。

フィンランドの大手銀行ノルデアのエコノミストによると、2004年度の国民総生産は上方傾向にあり、経済に対する消費者の姿勢も前向きなことから、住宅購入も活発になるということだ。労働者の給与も右肩上がりで、10年前と比較すると600ユーロ増収しているし、近年は住宅ローン期間も長期化していることから、ローンの支払能力も増加して、それに追随するように住宅購入も増加するというわけだ。

フィンランド統計局(Tilastokeskus)によると、需要の上昇に伴って、一戸建て住宅の価格は10年前と比べると2倍に跳ね上がり、昨年と比較してもフィンランド全体でおよそ10パーセント上昇している。敷地価格を見てみると、首都圏地域では全体の平均価格の10倍もの値がついている(2004年6月現在)。同センターによる調査では、建築費用もまた、材料費や人件費などを総合した結果、ここ一年で二,八パーセントの上昇が見られた(2004年9月現在)。

首都圏を含む南部および西部フィンランドでは、敷地供給が低く住宅需要が高いことから、価格は依然として高騰している。とくに、センター街における新築への需要は非常に高い。主人公マッティ・ヴィルタネンの綿密な調査が物語っているように、60平方メートルくらいの中古のアパートメントでも、なんと40万ユーロくらいまで跳ね上がる。東部ヘルシンキでは中古の連続住宅へのニーズが高い。もちろん、一戸建て住宅への需要のほうがはるかに上回っているが、建設地の供給が追いつかないため連続住宅に快適さを求める家族も多い。そのため、多くの狭小住宅が連続住宅へと改築される場合もある。

反対に、希望者ができるだけ多く住めるように都心部に伝統的な退役軍人家屋のような狭小住宅を増築するという案もある。あるいは、住宅情報センター(Asuntotietokeskus)によると、現存する退役軍人家屋を現代のニーズに応えるようにリフォームするケースもある。伝統的な退役軍人家屋の屋根裏を活用し、下階にはキッチンとバスルームを含めたすべての生活空間を配置したり、リビング空間を開放する代わりに寝室はコンパクトに納めたり、あるいは、斜面地を利用して高台に設置されたリビングルームから壮麗な海原を望めるようにする、といったようなリフォームだ。

不動産仲介業者ヤルモ・ケサマーの言うとおり、首都圏から離れるほどマイホームが手に入れやすくなる。なによりも解放された居住空間や自然と共生した住宅環境が、ヘルシンキに比べて良心的な価格で提供される。先に述べたように、生計の向上と経済発展に伴って住宅への期待感が膨らんでいることから、より健康的で質の高い住まいを求める人が増えているのである。

交通の便は最優先ではないものの、つねに発展している交通機関にも将来の可能性が見込める。子どものいる家庭が望む最初の住居は一戸建て住宅である。より安価でより快適な暮らしは、おのずと首都圏外に集中してくる。首都圏近郊都市のエスポー市は人気がある。部屋数よりも遠隔仕事ができるようなコンピュータールームの確保や、帰国子女の多いエスポーに特化した小・中学校などの教育機関の多様性が、購入の決め手になっているようだ。また、フィンランドの国民的詩人ルーネベリの故郷であるポルヴォー市では、南部フィンランド特有の牧歌的な田園風景が安心感と温かい家庭というイメージを与えていることから、ポルヴォーへの転居者も増えている。

首都圏外都市のなかでも、トゥルク市、タンペレ市、ユヴァスキュラ市、オウル市といった西部フィンランドにも、居住者が増加している。これらの都市に共通しているのは、大学都市であるということだ。IT産業やサービス業といった職場が期待できることから、都心部の住民層は若く、学生が多い。近郊都市には、子どもを持った家族や比較的収入のある家族が居を構えている。

同じように、クオピオ市やヨエンスー市といった大学都市を持つ東部フィンランドや、ロヴァニエミ市を中心とした北部フィンランドも、以前は住民が減少傾向にあったものの上向きになりつつある。その理由として、失業者の減少と観光都市としての急成長が挙げられるが、小さな町では依然として若い労働力は減少し高齢化してきているといった課題もあるようだ。

いずれの町であれ、近年、マイホームに期待するのは家族が安心して快適に住めるクオリティ優先の家であり、自然と共生できる家が求められている。

タパニラの木造家屋

ヘルシンキ中央駅から、首都圏を連絡するVR鉄道ティックリラ線のI電車に乗る。各駅停車の控えめな電車で、大きな窓枠からゆっくりと景色がめくられる。ガタンゴトンと震える枕木、おっくうそうに軋むブレーキ。確実に電車の息づかいが足裏から伝わってくるからI電車は好きだ。I電車が止まる駅は全部で九駅、マルミ駅の次の四駅目がタパニラだ。

19世紀半ばにタパニラに鉄道が敷かれたのに伴い、新たに鉄道警備員たちが移住してきた。その一人にアンデルス・グスタフ・フランツェーンという人がいる。1870年、小作農も営んでいたフランツェーンの家に、フィンランドの文豪アレクシス・キヴィ(1834~1872)が数週間滞在していたことから、タパニラ区の通りの名前にはキヴィの代表作『七人兄弟(Seitsemän veljestä)』(1870)にちなんだ名前が数多くつけられている(『マイホーム』脚注(5)を参照)。そのユコラ兄弟の一人であるティモの名を冠した通りに、私の大切な友人が住んでいる。

20世紀初頭にヘルシンキ市がタパニラ区をゴミ捨て場として定めたが、肥沃な堆肥と土壌に恵まれて造園業が盛んになった。その名残りからか、通りを挟む木々は見上げるように高く成長している。木漏れ日を細片のように切り取りながら連なるリラの並木道。舗装されていない荒削りの砂利道が、ゴツンゴツンと靴裏を叩く。時折、右に左にバランスを崩しながら走り去る車が振り撒く砂いきれに、少しむせぶ。右手に折れると褪せた水色の柵が見えてくる。足元に造作なく転がっている松ぼっくりを歓迎のしるしと思いながら、人ひとり通れるくらいのポーチをくぐる。

中へ入ると奥の右手に離れがある。赤煉瓦色の屋根をかぶったサウナ小屋だ。友人の息子が土曜日にかならず火を熾してサウナを焚く。サウナ小屋を背景に広がる庭には、初夏のころにはユリ科のシラーが静謐な青い小花を咲かせる。小型の星状花は、まるでコスモスから降ってきた星屑みたいだ。基礎台を飾るように咲くのが、同じ球根性多年草のハナニラだ。広線形に地面を撫でるように伸びる葉をもち、細い星型の花弁をもつ。一株につく花数は少ないが、淡紅色の花が群生すると息を呑むほど美しい。

家を囲んでいる柵と同じ、くすんだ青い玄関脇にもたれかかるカエデの巨木に圧倒される。老練な顔つきの守護神カエデには、おおぶりの傘を広げたアミヒラタケが寄生していた。築数十年という二階建ての木造家屋は、開ける扉はどれもきまり悪そうに鈍い音を立て、階段や床板はどの継ぎ目を踏んでも痛そうに声を上げる。これは、家が人と生きてきた証だ。木は呼吸する。雪水を吸って膨張し、乾いた陽光に繊維が縮む。火傷するような氷点下には、梁は伸縮して悲鳴を上げるのだ。

昔の造りの木造家屋には、円筒状のストーブが大黒柱のように二階まで貫通していて、各部屋を芯から温めてくれる。残り火に、スペルト小麦を入れた鍋を入れておくと、翌朝には口当たりのまろやかなお粥にしあがっている。どっしりと貫禄のあるストーブは、時を経てクリーム色の塗料がパラパラと剥がれ落ちていたので、昨冬に銀色に化粧直しされた。

「少しは、ボロ隠しになったかしら」と、つぶやく友人の瞳は優しくて蒼い。

地下室はなく、洗面所とトイレとシャワールームと洗濯場は一部屋に収まっている。勝手口近くのガラス張りのベランダは日の当たる場所で、植物の苗床やプランター、それにお気に入りの本が壁伝いのマントルピースに並んでいる。ある日、表玄関に鍵が掛かっていたので勝手口から入らせてもらったら、頬に夕日を受けてまどろんだ友人が出迎えてくれた。その光景は今でも忘れられない。

クスタヴィ群島のアトリエ

西部フィンランドの古都トゥルクから、数本の橋桁に支えられて慎ましく大陸と群島をつなぐカイタイセット橋を渡る。およそ500メートルにおよぶカイタイセット橋は、フィンランドで最も長い橋の一本だ。橋が建設される1982年までは、渡し守が橋渡しをしていた。

トゥルクから69キロ、数千島からなる"群島の王国"と呼ばれるクスタヴィは、1784年にグスタフ三世の命によって、ストックホルムとトゥルクを連絡する郵便道と、グスタフ三世の通行の確保のために開通された。現在の島民人口は1100人だが、夏になるとサマーコテージで休暇を過ごす人たちで2500人にまで膨れ上がる。

松林を突き抜けて桟橋に出たら、車を止める。そして、係留しておいたモーターボートに画材道具を持って乗り込む。荷物が多いときには何度もこれを往復する。東南と西北に走るストローミ海峡を望むカトゥクル島が、友人の芸術家の夏のアトリエとなる。氷河期時代の岩盤に建てられた煉瓦色の二階建ての母屋。内壁はピンクに染められ、群青色の窓枠が海原を想起させる。どの部屋も光で溢れ、採光窓は引き伸ばしたように天井まで届かんばかりだ。

アトリエは離れにある。松林で陰になりそうなのに、アトリエの白壁がわずかな陽光さえも逃さずに吸収して、微かな輪郭線をも浮かび上がらせてくれる。年代物のプレス機、金属と塗料の混じった匂い、そして白木の新鮮な香りが幻想的に溶け合う。ベランダからは、雲の陰影を映し出すストローミ海峡や岩肌に生えた小ぶりの松に飾られた島の風景が見える。

一段下がった岩盤に造ったサウナ小屋は、着がえ室と浴室とサウナ室と開放的なベランダを備えた本格的なものだ。薪で小屋を温め、その熱で石を熱くする。水をかけられた焼け石はジュワッと白い蒸気を吐いて、肌にじっとりと纏わりつく。サウナベンチは緩やかなカーブを描き、腰掛けるだけではなく横になれるようになっている。芸術家と娘さんと私の三人は、木肌に触れるように寝そべって、サウナストーブのジンジンという音に耳を澄まし、じんわりと滲み出る汗の筋に耐え切れなくなって、一糸纏わず海へ滑り込んだ。海なのに、淡水が混じっているように薄い味がした。

イソカリ灯台を目印にストローミ海峡を抜けて外海に出ると、蓋のようにうっすら浮かぶ島が見える。フィンランド自治領アハベナンマー(オーランド)諸島だ。この海峡を往来する船は少なくない。ここは、クスタヴィ有数の漁獲水域で、バルトニシンやトラウトサーモンやパーチといった海魚が獲れる。身はきゅっと締まっていて新鮮でおいしい。

「ときどき、ケータイ商いするのよ」と、芸術家がなにか神秘的な言葉を吐いた。

よく聞けば、ストローミ海峡を往来する漁船と携帯電話で直接取り引きして、獲ったばかりの新鮮な魚をコテージの桟橋まで運んできてくれるというのだ。

「今日はシナノユキマスが四匹獲れたから、二匹はソテー、二匹はハンノキのチップでスモークしましょうよ。ソテーのソースは、ピンクペッパーをきかせたホワイトソースできまりね」

芸術家の腕がふるった夕食はご馳走だった。

「強烈な緑を帯びた逞しい島の松は、岩肌のわずかな隙間にしがみつくように生え、わずかに垣間みえる地殻からしたたかに生命力を吸収する。地面と呼べるような地面すらない岩もあるのに、松は頑なに根を下ろして生きている。嵐や旱魃に抗いながら生き抜いて、その強靭な梢は海風に揺れてきた。ぽつんと高く聳え立つあの松は、今も昔もずっと変わらない。クスタヴィの松の成長速度は遅く、目に見える変化が表れるまで数十年はかかってしまう」

イナリ・クルーン著『本棚のミューズ(Muusa kirjahyllyssä)』(2004)

氷河期の岩盤は何百年もの歳月を経て波に尖端を削られたせいか、丸くて艶やかだ。土壌が極めて乏しい岩盤に根を張る松の木は、両掌で包めるほど華奢なのに、ぎっしりと機密に年輪を描いた木々は、ほかのどの木よりも頑丈だ。水を求めて根を張るうちに岩肌に沿うように這え、曲芸師のようにくねったり、尺取虫のようにしなやかに輪を描いたり、一本一本が個性的で独創的だ。

「クスタヴィで初めて自然の存在を身体全体で感じ、まるで文明と原始の交差点に立っているようだった。周りを取り巻いている海は、目の前で果つることのない外海へと広がってゆく。(・・・)広大な蒼い海に抱かれた群島は神さまの夢のよう。島はひとつとして同じものはなく、それぞれが独自の世界を持っている。クスタヴィで夏を過ごし始めたころは、水は玲瓏な美しさを秘め、海の深淵には海藻ケルプの森が漂っていた。茶色のマットのように折り重なって海岸に打ち寄せられたケルプに、きらりと耀きを放つ貝殻が絡みつく。氷河期時代の岩肌は絹のようになめらかで、夏、泳いだあとに裸のまま柔らかな懐に寝そべると太陽の温もりを感じた。太古の昔、なにかしらの大きな手によって自由気ままに描かれた絵のように、岩は多彩な顔を持つ。(・・・)色はどれも強烈で光輝があって対照的だ。外海に散る光の砕片、強烈な緑を帯びる松の森、雲の形成に合わせて移ろう光。帳が降りるころ、雲は空から紫と緑とピンクを呑み込んで、微かに波立ち真珠色にグラデーションする水面に投影する。嵐や雨が降るときには、雲は鈍色(にびいろ)のカーテンを引き、霞をかける」

イナリ・クルーン著『本棚のミューズ(Muusa kirjahyllyssä)』(2004)

この芸術家一家は、幼少時代をクスタヴィで過ごし、海のある風景や神秘的な森や動植物をモチーフにした作品を数多く描いている。木々の繊維一本一本、葉の葉脈一筋一筋、、すべてを長けた観察眼で植物標本のように映した作品は、心の深淵を突いてくる。

同じように、クスタヴィの風景を作品に濃厚に取り入れたフィンランド人作家に、ヴォルテル・キルピ(1874~1939)がいる。彼はクスタヴィで生まれ育った小説家で、1930年代に書き残した長編小説『アラス屋敷の広間にて(Alastalon salissa)』(1933)を始めとした「島シリーズ」は、些細な物事の描写に膨大なページを割いた現代主義風の作品で代表作となった。キルピの屋敷はまだ現存しており、黄ばんだクリーム色の屋敷は、芸術家のいるカトゥクル島から肉眼で見える。ディテールに富んだ優雅な壁紙、床を余すところなく敷き詰めた二種類のカーペット、天井から吊るされたシャンデリア、高級な質感が伝わってくるソファ、窓越しに零れてくる木漏れ日。芸術家の繊細なタッチの活きた水彩画「アラス屋敷の広間にて」(1976)は、現在、ヘルシンキの国立現代美術館キアスマに収蔵されている。キルピを記念して開催される文学イベント「ヴォルテル・キルピ・ウィーク」は来年で七回目を迎えるが、タパニラの友人と芸術家は、このイベントの常連だ。

ハメーンキュロのノスタルジア

フィンランドの工業都市として栄え、現在、第二の都市として知られるタンペレ市は、大学都市ということからも、年々、居住者が増加の一途をたどっている。駅からセンター街まで伸びる大通りの突き当たりに市立図書館「メッツォ」を構え、左手の坂をてくてく上ると見晴らしのよいピューニッキの尾根に出る。今では、高級住宅地として羨望の場所となった。ピューニッキの尾根のてっぺんには小ぶりで筒状の煉瓦造りの展望台がすっくと立ち、入って右手の昇降エレベータがタンペレを一望できる屋上へといざなう。

町のパノラマよりも人気があるのは、気の置けないサロン風の「ドーナツカフェ」だ。カフェの名のようにドーナツ行列ができることで有名だ。ここのフィンランドドーナツは、カルダモン入りのパン生地を揚げてグラニュー糖をたっぷり塗したリングドーナツで、噛むと砂糖の粒子がシャリシャリと歯に当たり、一噛み二噛みすると揚げたてのふかふかの生地がホットココアと一緒に溶け合って、とてもおいしい。

尾根を少し下ると、フィンランドで最大級の野外劇場「ピューニッキ劇場」がある。中央に勾配をつけた観客席があり、その周りをぐるりと舞台が取り囲む。シーンが変わるたびに観客席がまるごとギイィと軋みながら動く。まるで、時代がごっそり音を立てているような、空間に歪みができたような感覚に陥ってしまう。潮騒のような木々のざわめきが微かな音響効果となって、臨場感がいっそう湧いてくる。そこで観た、人物描写に長けた小説家カッレ・パータロ(1919~)の自伝風物語『がむしゃらに(Pohjalta ponnistaen)』(1983)は忘れられない。

展望台のドーナツも可動式のピューニッキ劇場も、ハメーンキュロの友人と訪れた。「ピューニッキの高級住宅地で絶景とともに晩年は暮らしたいんだ」と、ぼそっと呟きながら尾根を案内してくれたことを思い出す。でも、きっと本気じゃない。同じくらい絶景を抱く故郷ハメーンキュロを離れるなんて、彼にはきっとできない。

タンペレから40キロ西北に国道三号線沿いを走ると、森や林がふつりと途絶えて牧歌的な田園風景が開けてくる。その風景の数々は、一九九五年に国の文化的景観として保護地域に定められている。フィンランドで唯一のノーベル文学賞受賞者F.E.シッランパー(1888~1964)の故郷でもあるハメーンキュロには、外海へと広がる湖に面した荘園風のカフェがあり、折々の野草が咲き誇る森があり、春先に漂う酪農の営みの肥えた匂いが漂う。

友人は生真面目な教員で、週末や長い休暇になると、「君たちの週末の予定はどうなんだい?もし、空いているなら、ハメーンキュロに招待したいんだ」と、電話をかけてきてくれた。五分前の精神で待合場所にフォードで現れ、かならず旧街道を通ってハメーンキュロの文化的景観を褒め称える。アスファルト道を右手に折れると、舗道されていない細い路地に入る。その路地を挟むようにゆったりと間隔を空けて数軒が点在する。

家の隣近所は彼の奥さんの親族で固められている。田舎の郵便受けはたいてい、アスファルト道に面した路地に一箇所に設置されている。郵便受けの名札は友人宅を除いて、みな「リンナインマー」だ。アスファルト道を左手に折れたところに、いくぶん幅の広い道が長く続いている。その道を延々と歩くと、シッランパーの生家がある。質素で謙虚な小さな家は、こもごもの植物たちに彩られて優しい印象を醸し出す。この通りを「シッランパー通り」というが、名付け親は友人の奥さんの父らしい。リンナインマーはハメーンキュロではちょっと名の知れた一族のようだ。

せめて形だけでも、と友人が無造作に置いた門扉らしき四角い石の塊は、砥をかけるのを拒んでいるかのようにごつごつしていて、ちょっと友人を想わせる。表玄関に面したジャガイモ畑は秋の収穫のために、夏に蓮華色の葱坊主をつける野生のチャービルやケールは夏野菜スープのために、幾冬を越えて結実したリンゴはジャムと小動物のために。裏庭は太陽の輻射熱を全身で受けるように雄大に扇状にひろがり、その斜面地はサウナ小屋と湖へ勾配をつけている。以前はもっと白樺が林立していたのに、見晴らしよくしたいからと、間引きするように友人に伐られた木々は、今ではサウナやオーブンの焚きつけ用となった。

子どもがまだ小さいときはタンペレでアパート暮らしをしていたそうだが、念願のマイホームを建てる土地を手に入れてから、夫婦二人で何年もかけて家族のドリームハウスにした。赤い屋根に空色の外壁、風除室を抜けて右手に客間、左手にキッチン、真正面にリビングルーム。リビングの向こうには、増築したガラス張りのベランダがある。日溜りになる突き出たベランダに回転式のテーブルを置き、帳の降りない白い夏の夜にコーヒーを飲む。リビングを挟んで、夫婦の寝室と息子二人の部屋がある。寝室と連結している室内サウナと浴室は勝手口へと続き、そこは奥さんの裁縫部屋兼作業場にもなっている。ロフトのような上階は客室となっていて、その脇には物置化した屋根裏が続く。

各部屋を彩っているのは、アンティーク好きの友人が集めた家具の品々だ。ハメーンキュロまでの道程、かならず骨董屋に立ち寄って陶酔の溜息を漏らしていた彼を思い出す。緩やかな曲線が美しいユーゲンド調のソファや椅子やチェストやグラスが家を飾り、そして、オクサネン家にもあったような、建築当時の家の航空写真が額に入れられて壁に堂々と飾られている。

斜面地をうまく利用した地下室もある。地下室の床扉をぐいっと上に開ける。この床扉は冷気を遮断するためのものだ。その扉を開けるたびに、ひんやりとした土とコンクリートの匂いが漂って痺れるような緊張感があった。地下室は貯蔵庫と物置と作業場として機能していた。秋に森で収穫したベリーや茸、突然の来客のためのシナモンロールや霰糖をかけた菓子パンのプッラ、調理済みの肉料理や冷凍食品の数々、いつのものか分からないパック詰めされたものも貯蔵庫に眠っている・・・。地下室には要らなくなった椅子や机やおもちゃの数々も右に左に散在している。独りになって考え事をしたいときには、友人は森に行くか地下室にこもる。冷静になるらしい。

友人のこだわりは、煉瓦造りのストーブだ。家の中央にどっしりと構えた保温性のあるストーブの中で、ラーティッコと呼ばれるグラタンやキャセロールがグツグツと煮え、ピーラッカと呼ばれるパイや穀類たっぷりのパンがふっくらと焼き上がる。残り火の温かさは家の隅々まで行き渡り、安らかな眠りをも誘う。オーブンの持続する暖かさは、パン種の格好の発酵場所ともなり、雪水で濡れそぼった靴下や手袋の乾燥場所となり、飼い猫キスキスの最高の寝床ともなる。

ずっと下った離れにサウナ小屋があるが、電気はなく明り取りの窓は光の筋が顔を照らすくらい小さい。シュンシュンと沸く洗い湯、ジュッジュッと焼けるサウナストーブ、パシャパシャと白樺の葉束で打ち叩くと蒸気する清冽なアロマ。仄かに暮れなずむ夏至の微光を受けながら浸かる湖の水は、一瞬ためらうくらいまだ冷たいのに、二人は儀式のように水を楽しむ。

時間と労力をかけて築き上げてきた夢の家は、いつも花でいっぱいだった。二重窓の空間に湿原で摘んできたワタスゲや苔を飾り、忘れな草や風露草や金鳳花はグラスに活けて食卓に花を添える。仕事人間の友人夫妻がついつい手入れを見逃してしまった紅紫色のツツジは霜枯れて花がつきにくくなってしまったけれど、母の日のころに下草のようにひっそりと咲く白い二輪草は毎年二人のために咲いてくれる。

岩間に奥ゆかしく綻ぶ淡紅色のスイカズラ科のリンネソウは二人のお気に入りだ。針金のように細い枝をもち、数センチほどの花茎を立てる。先端で二つに分かれて釣鐘状の花冠を抱く可憐な花は、一つの茎から二つの花が寄り添うように咲く。夫婦花と呼ばれるリンネソウは、二人の営みを映しているようだった。

主人公マッティ・ヴィルタネンのドリームハウスは、戦後に建てられた築数十年の規格住宅だった。外壁からは塗料がパラパラと剥がれ落ち、床板も階段もギイィと鈍く軋む木造住宅は、装飾性も個性もなく、贅沢という言葉からかけ離れた慎ましやかな簡素な家だった。けれども、家がどんな服を纏い、どんな容貌をしていようとも、彼にとって大切だったのは住まう人たちなのだ。

「(・・・)便器もブロンズ製でなくて結構。レバーもアルミ製でなくて結構。家族と家が三五年間を一緒に過ごせればそれでいい」

『マイホーム』より

タパニラの木造住宅も、クスタヴィのアトリエも、そしてハメーンキュロのノスタルジアも、住まう人びとの心が家とともに具現化されているように感じる。家は家族の営みとともに年を重ねてゆく。そのなかで一緒に紡ぎだされてゆく幸福があるからこそ、どんなに古くても胸を打たれる感動がある。

(文 末延弘子 『マイホーム』(2004、新評論)より)


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