KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

詠う人びと

文字を伝う喜び

天井まで届く木枠の本棚に、不揃いの書物が縦や横にぎっしりと並ぶ。本棚は壁伝いを這うように立ち並び、横に渡した厚板は本の重みでぐわんと撓う。最近になってようやく、価格も携帯も手ごろなペーパーブックが書店に並ぶようになったけれど、今でも主流は、詩集も小説もずっしりと重量感のある上製カバーの書物ばかり。本の趣は変わっても読書や本に対するフィンランド人の姿勢は変わらず、文字を尊び、文字から知識を汲むことに喜びを感じ取ります。

星の澄んだ瞬きが聞こえそうな冬の晩には、すっぽりと身体が埋まるソファに腰かけ、燈火に親しみながら本の世界に浸ります。耳に届くのは爆ぜる薪の単音。白い雪面は墨色の帳とあまりにも対照的で、詠み人たちを静寂と思考へ誘います。一人で読書を楽しむときもあれば、読み手を囲んで物語に興じるときもあります。例えば、作家レーナ・クルーン一家は風刺の効いたオッリ(ヴァイノ・ヌオルテヴァ、1889~1967)のコラムを読み聞かせます。コラムは文芸誌「新芬蘭」に40年以上に渡って掲載され、政治や官僚社会をもじってなじったアフォリズム。機知に富んだユーモアは、しなやかで変化に富んだフィンランド語に溶け込み、冴えたフィンランドユーモアに褪せない人気があるのでしょう。オッリの他に、ミルッカ・レコラ(1931~)もアフォリズムに長けた詩人です。短い言葉の中にいくつもの穿った核があり、詩の空間に広がりを感じさせます。

世界へフィンランド文学を

書物に触れる場は図書館を始めとして数多く存在します。フィンランド人が無類の読書好きであり、図書館利用頻度において他国より熱心なのも、この国の文化が読書に深く根ざしているからでしょう。英雄が韻を踏んだ言葉で挑み合う叙事詩『カレヴァラ』はフィンランド人の心に響き続ける物語です。その編者エリアス・レンルート(1802~1884)が、言葉と文学の発展と歴史的な資料と文献の継承のために、1831年に設立したのがフィンランド文学協会(SKS, www.finlit.fi)です。現在は政府機関となり国内外で精力的に活動しています。

私はフィンランド文学協会員として、2002年の暮れから半年間、フィンランド文学情報センター(FILI, www.finlit.fi/fili)に翻訳研修給付生として勤務しました。無二の経験を与えてくれたセンターでは、現代文学を中心に世界各国へ発信し、様々な文学関連セミナーやブックフェアを企画・開催し、また、フィンランド文学の媒体の鍵となる翻訳者育成にも力を入れて翻訳者セミナーを催し、助成金制度の充実に力を入れています。わずか数名の女性スタッフが世界各地を飛び回り、メディアや出版社と連携してフィンランド文学の宣伝に尽力している姿に、計り知れない躍動を感じます。その熱意は、忙しないハイヒールの靴音やピンと張った背筋や弛まぬ笑顔に溢れています。

センターの世界各国に間仕切りされた本棚は、地球を一望するかのように圧巻です。翻訳本の多くは、ドイツを始めとしたEU諸国やスウェーデンなどの北欧諸国が占めており、現代小説や幻想譚を中心に訳されています。現代小説の傾向としては、昨年、フィンランディア賞を受賞したカリ・ホタカイネンの『マイホーム』のような個人の断片的な瞑想が対話形式となったものや、レーナ・クルーンの『木々は八月に何をするのか』(拙訳、新評論)のような現実と幻想の狭間に歪みを見出すものが挙げられます。一方、ヨーロッパ東部・北部の国々では1950年以前の古典・近代文学が好まれ、極東の国々では訳者の選択に委ねられ、ジャンルは様々です。

憂い

贈り物は本。贈る言葉は詩。フィンランド人は、節目の祝い事や出会いと別れを大切にします。クリスマスや誕生日の贈り物として、そして、旅立ってゆくあの人へ捧げる餞として、温かい気持ちを本や詩に託します。

普段、なにげなく書き添える手紙にも詩情感が漂います。手紙の端に書き添えた些細な私の自然描写に、友人は連歌のように応えてくれるのです。そこには、いくばくかの"もの悲しさ"や"憂い"が感じ取れます。国立タンペレ大学ユハニ・ニエミ教授が、「わたしが読んでみたい詩」について1996年に文学部生にアンケートをとったところ、現代詩よりも古典詩を好むという結果が出ました。なかでも、言葉にせずとも表出してくる余情や幽玄を歌ったエイノ・レイノ(1878~1926)の「夜想曲」、負の因子から陽の局面を情熱的に導き出したエディス・ショーデルグラン(1892~1923)の「苦悩」、自己の葛藤を憂いに投じたウーノ・カイラス(1901~1933)の「家」が複数票を得ました。いずれの詩歌も悲哀と苦悩の色を帯びていますが、生命の躍動、情熱、そして、情感が溢れています。

自然と肩を寄せ合って暮らしているフィンランド人は、四季の移ろいに自分の思いをすうっと重ね合わせます。晩秋、波のまにまに揺らめく金色の葦の穂先。冬、頬に当たっては音もなく溶ける雪片。春、水面に映し出されたオオハクチョウの優雅なシルエット。夏、ツバメたちの燕尾服が空を舞い、繚乱と咲き誇る花々。そして、静寂に打ち響くクマゲラの打音や、わずかな微風にも音を奏でるハンノキの梢に、静かな動きを感じるフィンランド人の思いは、詩(うた)となってこれからも読み継がれていくのでしょう。

年代を問わず、多くのフィンランド人に親しまれてやまない詩人の一人に、エイノ・レイノがいます。毎年、功績を上げた詩人に彼の名を冠したエイノ・レイノ賞が送られますが、これもレイノがフィンランド詩に与えた影響の大きさを物語るものでしょう。

夜想曲

耳朶に触れるはウズラクイナの歌、
穂先に浮かぶは満ちる月。
夏の夜に感じる我が幸せ、
焼畑の煙に霞む谷。
喜ばず、悲しまず、吐息もつかず、
されども、我がもとに森の深緑をもたらさん。
夕焼け雲に日は沈み、
風村の蒼い薄光に我は眠る。 香しきリンネソウよ、水の影法師よ、
そこから、我が心の歌を紡ぎ出さん。

夏の干草、貴女に歌わん、
我が心の大いなる静寂よ、
信心よ、音となって冴え渡らん、
樫の冠、ふたたび青く。
もはや追わずは狐の火、
手にしているのは幸の金。
ぐるりと縮む生命(いのち)の線、
止まる時、休む風見鶏。
我が前に開くは黄昏の道、
未知なる小屋へと誘わん。

エイノ・レイノ『冬夜』(1905)より

(文/訳 末延弘子 「スオミ」21号掲載「フィンランドレポート」より)


気まぐれエッセーの目次へ   ▲このページのトップへもどる