KIRJOJEN PUUTARHA
フィンランド文学情報サイト

光を愛する人びと

12月。墨をこぼしたような暗闇に、ぽつりぽつりとロウソクの火が窓辺に灯ります。街のショーウィンドウも大通りも、白熱灯のおぼろげな明かりで煌めいて、その明かりは夜も消えることなく、歩く人びとの足元を、薄闇に染まった景色を照らすのです。蛍光灯よりも白熱灯を、白熱灯よりもロウソクの灯火を。フィンランド人の友人たちはシフォンのような仄かな光を好んで、そんな光の中で読書の虫となり、あるいは、愛する人たちと喋々と語らい合って、静寂の時間を過ごすのです。

黒い夜、爆ぜる薪の炎

夜気が肌に染みる。夜空の星が、月が目に染みる。寥々とした冬の大気は、煌々と耀く星の音が聞こえそうなくらい、しんと静まり返ります。黒い夜が続く、そんな冬の頃は、人びとは自然の光を楽しみます。例えば、コタというサーメ人のテント小屋の中で、車座になってコーヒーを飲むときがそう。その中央に薪をくべてコーヒーを沸かし、灯りは、薪を燃やしている火だけ。コーヒーをちびりちびりと飲んで、糖衣を着た菓子パンをほお張って、話に興ずるのです。コーヒーをかき混ぜる道具も自然体。フィンランドの男性が携えているプーッコというナイフで、薪の欠片を削ぎとったものがスプーン代わりとなるのです。

星や月の繊細な光、オーロラの撫でるような光は、「街の人工的な強い光に消されてしまうんだ」と空を仰いでいた友人がぽつりと呟きました。「僕は灯りを消す。月は夜の丸いランプ、夜にむかって澄み渡る。」そう詠うリスト・ラサも、「喨々たるは夜空の星」と愛でるアレクシス・キヴィも、果つることのない夜空に浮かぶ、微かな煌めきをうち眺めていたことでしょう。ヴァイノ・リンナの三部作『ここ北極星の下で』にも見られるように、フィンランド人は、よく北極星を母国に例えます。北極星の頑強な耀きは、彷徨する人びとの道標となります。そんな光の下で生きているフィンランドの人びとは、私には耀いて見えるのです。

胎動する光

水雪が、軋む粉雪へと変わり、やがて雪消の季節を迎える、そんな4月。眩しい、けれど新鮮で柔らかい光に、全てが静から動へと移ってゆきます。その躍動感溢れる光を浴びて、木々は若芽を伸ばし、やがては天蓋を覆うまでに生長します。夏の光は開放へと導いて、無邪気に駆け回る子どもたちのてっぺんを照らすのです。そんな情景を見ていると、「夏。肌は太陽の匂いがする、小さな子どもの髪のように」と詠ったラサの声が響いてきそうです。

夏に「雪」が降る。ニレの木から白く軽い綿がふわりと漂って、道がその冠毛で埋め尽くされます。その白い色が燃えるような青い木々の葉と呼応して、フィンランドの夏を彩ります。人びとは、そんな夏に、夜でも敢えて灯りを点けずにサウナを楽しみます。白い夏の光を、サウナの採光窓から取り入れるだけ。その白い光が、サウナベンチに並ぶ人たちに長く静かな影を落とすのです。

白い夏の頃は、野外劇場が盛んに催されます。沈まない太陽の光が照明の代わりとなり、観客も役者も自然と一体化して劇を楽しみます。今でも心に沁み込んでいるのは、F.E.シッランパーの『夏の夜の人びと』です。耳元でブンブンうなるヤブ蚊もそっちのけで、彼の生まれ故郷であるハメーンキュロでじっくりと堪能しました。

夏至の日はまんじりともできません。くたびれたボートや小枝でうずたかい山を作り、コッコと呼ばれる松明を燃やします。コッコを焚いて、悪い精霊を追い払い、五穀豊穣を祈るのです。ある夏至の夜、湖に浮かぶ小さな島でコッコが焚かれました。白い夜にコッコの燃えるようなオレンジ色がそそり立ち、その向こう側に、白い月の光が対照的に煌めいていました。コッコの周りに群がる「夏の夜の人びと」が、コッコの火と月光の影で黒い小さな点となり、湖上に点在していた光景は忘れられません。

フィンランドで光に対する感覚が研ぎ澄まされたように感じます。光の粒子が醸し出す静寂や明暗に愛おしさを感じるようになり、彼らが光に対してどれほどの深い愛情を抱いているのかも肌で感じました。光の静謐さを愛おしく想う気持ちは、月を愛でる日本人にも相通ずるところがあると思っています。そして、光とともに移ろいゆく自然に対しても、私たちと同じように彼らは敏感です。そんな気持ちを詠んだ短歌や俳句が、フィンランドで根強い人気を誇っているのも分かるような気がするのです。

(文 末延弘子 「スオミ」12号掲載)


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