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リーナ・カタヤヴオリ著 末延弘子訳「自画像」(東京ポエトリー・フェスティバル2011)

東京ポエトリー・フェスティバル2011

 


2011年09月09日(金)から11日(日)まで明治大学紫紺館明治大学リバティホールにて東京ポエトリー・フェスティバル2011が開催されました。世界詩歌へのフリーポートと題して、国内外から多くの詩人が参加しました。

フィンランドからは、詩人リーナ・カタヤヴオリが出席し詩を朗読しました。本サイトのスタッフである フィンランド文学翻訳家 末延弘子さんがリーナ・カタヤヴオリの詩を幾つか翻訳しています。その日本語訳をいくつかご紹介します。

 

【リーナ・カタヤヴオリ(Riina Katajavuori, 1968-)について】

詩人。ヘルシンキ大学とエディンバラ大学で文学を学ぶ。詩のほかに、小説や絵本も手がける。文芸誌の編集やコラムの寄稿、ヘルシンキ大学教育開発センターなどで教鞭を執る。エイナリ・ヴオレラ賞やルーネベリ賞といった文学賞の候補作品は多数にのぼる。

 

【抜粋訳】

自画像(2011)

洞窟が冷たいのか?洞窟には夏はない、かといって冬もない。一定の気温を保ち、しっとりと湿った内部は生き物に適している。生き物は蝋のように青白く、胴長の四本足で赤い耳がある。体はぐにゃりと曲がり、尾は櫂のように扁平で、目が見えない子猫と蛇をかけあわせたような顔をしている。できることなら、ここで踵を返し、死出の旅を取りやめたい。だが、引き返す通路は狭いうえに天井が低く、人がひしめき合っている。皆、何が何でもここから抜け出したいのだ。頭上で、うす黄色のムカデの四八本足がざわざわと動く。私はムカデをすぐにでも葬りたい。

私たちは何を知っているのだろう。知識は疑うことから始まる。そう、詩のように。なぜ、詩人は詩を書くのだろう。優れた詩人とは数学者だろう。無限や楕円や楕円コンパスはもとより、素数についても、的確に表現し、定義する。詩が考えること/思考であるなら、数学者や物理学者は優れた詩人だろう。詩の中に優れたものがあるのなら、優れた詩人とはコペルニクスであり、ジョルダーノ・ブルーノであり、ガリレイだろう。

消防周波数から遠く離れたところで、私は音の風景を聞いた。音のメモはどこかに行ってしまったが、海に連なる石造りの船積み場らしき所では、大勢が目を瞑って寝そべっている。親からはぐれた子羊なのか、親が大声で言いつけているのか、そのやりとりを私はしばらく聞いていた。海が島の北の方で想像を絶する轟音を立てている。鳥には名前が三つあった。優性言語と方言とフィンランド語だ。すべては曖昧だった。クロトウゾクカモメ、ニシツノメドリ、ニシセグロカモメ、ケワタガモ。どれも定義されていないのに、私は見わけることができた。正しい言葉/名前もなく、どういう種なのか私にはわからない。語彙も手引きも鳥の図鑑もなくて、十分に理解/認識できるのか。

絶対温度2.725 K

長い間、世界は冷えていた。最初の爆発が起きると、宇宙は膨張した。そして、ブラックホールだろうか、衝突し合体した。永遠とは、円盤状の銀河系にかかる修飾語だ。爆発の残光は観測され、赤ん坊のように大きさや重さが測られた。だが、重力子は、吸引と崩壊と重力波とかくれんぼしていて姿を現さない。重力は人間を穴に落とす。穴の底からもう一つの世界が覗き、彼岸の記憶の痕跡が見つかるだろう。

数学者は素数について、医者は原生動物について、民俗未来学者は原郷について、人類学者は原始人について、文学研究者は頭韻について、宇宙論者はビッグバンについて話す。詩人は、複合語の最初の語根に留まっている。

小屋を建てよう。体を丸めて柔らかい音を聴きながら眠りに落ちよう。小屋には蜜柑とナッツとライ麦クリスプを持っていきたい。私はここに隠居する。クリスマスと雪だるまと奇跡の毎日が待っている。布団に包まって、デルス・ウザーラに身を委ねる。ロシアの干し草と雪室が、にわかに立ち上がる嵐から守ってくれる。もちろん、アムールトラからも。

訳 末延弘子


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