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Leena Krohn

東海大学北欧週間 - レーナ・クルーンの講演内容(Japanese)

東海大学湘南校舎 北欧週間 松前記念館講堂(2004年11月9日 15:15-16:30)

筆を執る必然性

1.

読むこととは何でしょうか。書くこととは何でしょうか。いずれも謎と不思議に包まれていて、人間らしい行動形態そのものです。書く人は、自ら選択した秩序の中で意義を記号に移行させ、読む人がそれらの意義や秩序を解きます。つまり、眠っていた意義や秩序を再び目覚めさせるのです。そうして書く人の意識の一部が読者の意識の一部になり、ここである種のメタモルフォーゼが生じます。すなわち、人間として実存するうえで極めて本質的な相互作用プロセスが生じるというわけです。

書くこととと純文学は、個人的な経験を公表することであり、それが現実化することでもあります。自分の経験あるいは視点を言語へ移行させ、さらにそれを公にし、そして他人と分かつとき、私はその経験や視点をより強靭なものにし、より現実味を持たせたことになります。

書くことや書いたものを公表することは、現実像を試すことです。すなわち、現実とは何であるのかという質問に答えることであり、書く人が投げ出された時間と場所が出会う現実とは何なのかという疑問に対する回答なのです。この質問に対する答えは一つとして見つかりません。むしろ、答えは時とともに生き、枯れ衰え、落下し、古き場所に蘖が芽吹くように新たな答えが息づくのです。

フィクションやエッセーや手紙を書いても、実際にはこの試みに何の変化もありません。自分の現実概念を他人の目にさらすのは、彼らに試して掘り下げてもらうためです。

意義とは人間にとってもう一つの酸素であり、呼吸でもあります。何かが外部から人間の中へ移行し、相互作用の魂である生命を吹き込みます。意義は、「私」と「あなた」の関係の中にありますが、「あなた」は、死者、自然の生物、木、動物、雲、神格といった生きた人間以外でもありえます。

意義とは、人間に下されたであろう孤立から解放するものです。意義は、文書を介して、物理的な空間や時間や場所において決して出会うこともありませんし、お互いに知りうることのない人びとの関係に限らず、生者と死者の関係をも可能にします。書物とは、空間であり場所であり出会いの場所です。(書物が物質的な存在であることを止めて、中身が情報網という無形の宇宙へ移行したとしても、この事実は変わりません。)私たちは読むことを習い、そして実際に読んでいます。書物は媒介手段であり、この重要なプロセスを実現可能にしてくれる機械です。それと同時に、書物は情報を運び、移し、表現します。多くの段階を踏むプロセスが書物の中で生じ、書物を介して起こるわけです。これこそがまさに、書物が明晰ですらありうる機械を想起させる所以です。実際には一部品にすぎない機械。視線のエネルギーという理解作業によって機能する機械。コンピューターはソフトウエアとハードウエアを必要とし、いずれも片方なくしては役に立ちません。

ですが、書物は一冊で完全な個体なのです。必要なものはすべて書物自体にあり、むしろ書物と利用者の関係の中にあると言ったほうが的確でしょう。書物とは、それ自体で完全なる人工物なのです。

しかしながら、書物の世界における存在というのは文書や記号を否定し、書物や作家自体をも否めることになります。ここで、「作家はほとんど存在しない」と主張したモーリス・ブランショの正当性の意味を、私は再び知ることになります。

読書という重要なプロセスの中で、その複雑性について考えることなく読み進みながら、文学の現実効果は誕生し、また、つねに誕生し続けています。そして、そのとき書物と作家の役割は否定されるか、忘れ去られるのです。文書に再び意義を持たせたとき、読者は姿を消します。そして、それだけではありません。読者は作家をも消すのです。この忘却においてやっと、信憑性の高い現実世界が誕生するわけです。作家の創りだした現実が具現化するためには、書物と同様に作家も姿を消さなければなりません。読者もまた、存在を止めなければなりません。彼は別人となり、試す人となり、参加する人となり、参加しながら現実の変換機とならなくてはならないのです。

すなわち、作家と読者はある種の亡霊です。私たちは、彼らの存在方法を定義づけることはできません。

読者なくして文書は存在しないと私は申し上げましたが、ここで、物語が存在するためには書物が死ななくてはならないということを申し上げます。語り手は死ななくてはなりません。読者も読者として死ななくてはなりません。そして、試す人となり、別の目で見る人となり、別の耳で聞く人とならなくてはならないのです。

2.

Leena ja Hiroko書物を介して、書く人と読む人がお互いに関係を持ちますが、それは一方向的なものにすぎず、お互いに出会うことは決してありません。書物は心と心をつなぐ媒介物であり、別の心が地上で影響を及ぼすかどうかということは重要ではありません。

それでも、書物は意義を運び、移し、表現する一つの手段にすぎません。書物のページを前へ後へと捲るとき、映像とはまた異なる書物というものは、過去と現在と未来を含んだ連続体や時間を読者に与えるということが分かってきます。そのような時間の連続体は、もちろん他の方法によっても可能ですが、書物ほど容易くできるものはありません。

しかしながら、文学は書物ではありません。書物や文学は同じものではなく、これから先も同じものではありえません。

それでは、文学とは果たして何なのでしょうか?文学は有形でも目に見える客体でもなく、(フィルムが物質であり映画がそうでないように)文学は物質的ではなく目に見えない作品なのです。これらの作品は、ありとあらゆる多くの形態において送信できたり受容できたりします。記憶の中以外のどこにも存在しえないような作品を考えることも可能です。

そのような作品は本当の文学でしょうか?公表すること、すなわち、文書内容を分かつことが、いかなる形態において生じようとも、それこそが作品を文学にすると考えることができます。文学とは、疑う余地もなく公表の一部であり、大概において書物という形で現れるものです。たとえば、パントマイムという形で聴覚障害者に作品が移行したりするのと同じように、書物は原書の映像にすぎず、作品自体に到達するためのある種のシミュレーションにすぎないのです。このシミュレーションは作品に言及しているということから考えても、メタ作品のようなものです。

作品は相互作用を受けて意識間で息づいています。作品は、すなわち相互作用なのです。私には情報網が見えます。文学に対等するものとして、開かれた組織として私の目に映ると同時に、人体の延長体としても、人の心の映像としても映ります。それらはいずれも認識の通信網です。文学の読者も、インターネットの利用者も、椅子から立ち上がることなく新たな現実地帯に移行します。ページを開けばまた、何らかの変換が生じます。

情報網も文学も等位関係にあり、つねに未完成で果つることなく進化してゆくものです。一人の作家の作品は、世界文学という組織の中の結び目にすぎません。情報網においても、また文学においてもそうですが、最大の公表は極めて親和的なものと相互作用関係にあるのです。

芸術作品は、ある種の個人的な人生経験の濃縮液であり、そこに髄液が抽出されています。そこに一人の人間の感情と知識が集約され、世界像全体が極めて小さな空間や詩や曲や絵に集められているのです。芸術作品を形作ることは生きた有機体の成長に似ています。そこにも、変異、適合、自然淘汰、自動調節、出現、動態、秩序が現れます。無機物が有機物へ変わり、無意味が有意義に変わり、物体が人工物へと変わるのです。

文学とは、現実というある種のジャンルです。しかしながら、それは絶対的な現実そのものではなく、独立した世界でもありません。というのも、共通の分かたれた私たちの現実と血を分けて固く結び付いているからです。

感じることすべてが相互作用であり、世界と個人の間で起こるコミュニケーションであり、内部と外部の間で起こる伝達なのです。認識、観察、注意力は、あらゆる芸術を作り上げる基礎となります。自分たちの注目や注意をどこに向けて、何が目に映るのでしょう?書くことも読むことも選択することであり、世界を広く認知することです。内的なモノローグは生まれて間もない頃から死ぬ間際まで続きます。おそらく、あの世においても続くことでしょう。人間の中枢神経は、因果関係を編み、そのようなものとして、私たちは出来事も物語もドラマも夢さえも意識しています。そうやって、私たちは自分の魂を書いているのです。

3.

Leenan alustusここで私が言っている文学が相互作用であるというのは、本一冊たりとも関係していないものはないという意味において、多くのつながりを意味しています。本も文章もすべて、神秘に包まれた複雑な建築物として一つにつながっています。どの本もお互いに交際関係にあり、どの本も思考が幾筋にも分かれた小道の庭で間接的に別の本と関係しています。フィンランドの本がフィンランドの本とだけ交際関係にあるというわけではありません。ですから、特定の国民的な芸術や文学は私にとっては信じがたいものがあります。それに、国民的であることに特化した学術分野は一つとしてありませんし、それこそ不条理でナンセンスな考えというものです。文学はすべて、完成することのない目に見えない一つの大聖堂を築いていると、私は思っています。書く人の建築材料は言語です。ただ言語のみなのです。

ウンブラ医師(拙著『ウンブラ(Umbra)』(1991)(『ウンブラ/タイナロン -無限の可能性を秘めた二つの物語』(新評論, 2002)所収))は言語を感覚と言いましたが、その場合、言語は人間の最年少の感覚器官となるでしょう。

象徴はあらゆる人間らしい表現や芸術の礎です。スピーチですら、初期機能はコミュニケーションではなく象徴化であり、それは考えを表現するために必要なものです。会話は、象徴が内包されて初めて生まれるものです。文書は言うまでもありません。言語は戦略であり、それによって思考が形成され、それを介して想像が分かたれるのです。しかしながら、私たちに言語が必要であるのは、ある動物種に特有の集団魂のようなテレパシーを人間種が持ち合わせていないからです。

文学について話しているとき、想像について話していることになります。そして、想像について話しているときは、思考について話しています。そして、思考について話しているときは、道徳について話していることにもなるのです。それはなるべくしてなる不可避なことです。

私自身、想像を非合理ではなく合理の一部として考えています。そして、道徳のうえに成り立っているものと考えます。道徳は想像から始まります。いわゆる知能は倫理的な問題の対処や解決に用いる手段としては頼りなさすぎます。

文学においては、文学が問題ではないということを、はっきり申し上げます。つまり、私が意味しているのは、五感やテーマや構造といったものはすべて取るに足らないものであるということです。文学の問題は、誰もが避けて通れない文学の様々な選択の出会いだと私は考えています。人生において、早急な対処や性質の理解を多かれ少なかれ要求する関係については、"解決"という言葉を言うことも憚られますし、言いたくありません。

まず、時間に関して言及したいと思います。時間は、変化やメタモルフォーゼとの関係と同じです。自分自身、他人、老人、若者、そして最も傷つきやすく最も成長能力の深淵である赤ん坊の変化を通して、変化はいかに受け入れられ、理解され、耐えられるのでしょう。

次に、赤の他人や外部の出会いを私は意味しました。まさに、別の人間もしくは別の動物種、あるいは私たちが生活している可変的な環境のことが問題なのです。私たちが現実に存在していると自ら意識するためには、まず他人の現実を認識しなければならないという、避けて通れない点を言及しておきます。自分と他人の経験が同じ基準で計れないということこそが、現実の性質の本質的な何かのように思えます。それらが一つに降りてくるところに、愛の微妙な可能性が息づいています。

それを介して、私たちは自分の肉体との関係に迫り、自分と他人の性との関係に迫り、そして再び自分の中の他人や他人の中の自分に迫るのです。また、快楽と苦悶、関係と孤独が切り離し、動物性や個性や社会性や聖式をかけ合わせる性別との関係に迫るのです。

意志と良心と呼ばれるものについて、もう少し言及したいと思います。つまり、善と悪、それらの存在や相違や不可分性について、そして避けてゆくクレバスや行為と思考の狭間に射す影についての問題です。

無限との関係は言うまでもありませんが、私たちの理解力にないものは何なのでしょうか、そして、何について私たちはまだ知らないのでしょうか。不可解との関係について、自分の視線を実現するのに必要な現実自体との関係も然りです。

そして、美との関係も"善の飢え"も"美を前にした弱さ"(ソール・ベロー)も素通りすることはできません。

さらに、"私"という自我との関係も無視できません。自我を介してのみ、この関係を生きていくことになりますし、出会わない日は一日たりともありません。奇妙な環です。なぜなら、自我はまさしくこの関係の中にあるからです。けれども、自我はありません。というのも、私たちは私たちであって、関係しているにすぎないからです。私たちにこの課題を差し出したり、出会うように要求したりする人もいませんし、そんな特定の意志もありません。しかしながら、人間が時間と物質が規則性を以って結合されたコスモスに誕生した限り、人間に付いてまわる義務のようなものです。

4.

人は人間関係の中で生きています。視覚あるいは聴覚、さらに悪いことにはいずれの感覚も失ってしまう場合、他人との相互作用は有無を言わせず難しくなります。感覚器官が薄れてゆくと、人は殻に閉じこもるようになります。残された自分の肉体とその感覚だけでは不十分なのです。生きてゆくためには、新たな航路と交際手段を見出さなくてはなりません。文学は、特定の五感に縛られることなく受容することから、他とは異なるジャンルです。これは、言語の特質や象徴の性質に起因しています。文学は、言語からも五感からも他へ転換します。書物とは、空間における動きでありパントマイムでもありえます。それは、手話によって解釈することができるからです。書物はまた、聴覚的に受容することもできますし、点字や掌に与えられる指サインによって読み取ることもできます。しかしながら、このように翻訳する段階で多くの内容が失われることも否めません。

視覚的に、あるいは、その他の感覚器官に基づいて書く作家もいれば、ひどく抽象的に書く作家もいます。知覚や合理性における想像との関係には、底知れない関心を抱いています。(認識するうえでも想像が関係していることは明確です。)これらすべてが結合したものは、非常に興味深いものがあります。

映画は、選ばれた対象と選ばれた視点と選ばれた時間といった、目に見えるものを提供します。書物はそれ自体の視点を語ると、私は言いました。しかしながら、映像も言葉もどれ一つ取ってみても、その周りはたくさんの意義で雲っているのです。

書くことと考えることは、ある部分において同じものです。ただ、不思議に思うのは、思考は絶えず分岐するのに、書く人は決められた小道をひたすら進んで、別方向へ曲がることはしないということです。文章はどれも、何万という文章へ繋がってゆく可能性があり、物語はどれも、何万というまだ語られていない集団から選ばれたのです。これはどういうことなのでしょうか?書く人ですら自分の動機について知る由もないのも、それが認識の根幹の奥深くにあるからなのです。

個人主義的な価値を深追いしたいわけではありません。私を惹きつけて止まないのは、人間の相違性よりも類似性です。思考は自分のものではありませんし、言語も自分のものではありません。私は自分で自分らしさを認知し、自分らしい言語で自分が書き記した自分らしい考え方をし、それをできる限り明確に表そうと努めます。

人類が経験した現実は現実すべてではありません。このことは、いつも意識していますし、私たちの存在のパラドックスについても気づいています。つまり、無形は有形のうえに、非現実は現実のうえに、非合理は合理のうえに成り立っているということです。形而上学も道徳哲学も詩も、私の中では分かつことなく一つに結び付いています。

人や世界の中で、一定不変なものは何なのでしょうか。何が意識を現実とつなぎ、文明を自然とつなぎ、個人を人類につなぎ、人間を機械につなぎ、そして動物を神格へとつなぐのでしょうか。審美学や倫理学、生物学や物理学といった個々の学術分野がソロモンの結び目のように絡み合うさまが見えてくるまで読み進めるほど、関係や規則性や類似性が見えてきます。

5.

ユハニ・アホやアルヴィッド・ヤールネフェルトといった20世紀初頭の写実主義的なフィンランド人作家は、「真実のみを書くべきだ」ということを信条としていました。私は、いわゆる写実主義者ではありませんが、その信条は優れた指針だと思っています。内容はまったく同じではありませんが、その信条に署名しても良いくらいです。私は写実主義者ではありません。あるとき、「不可能と可能を一緒にするのは難しいですか」と小学生に質問されたことがあります。私は、「いいえ、ちっとも」と答えました。人はいつだってその作業をやっているわけですし、作家だけが例外ではありませんから。

真実だと感じることを書かなければなりません。不可能の中にだって真実が潜んでいるかもしれないのです。芸術は合理的でもありませんし、現実というわけでもありません。芸術は、人間の理性の標準や尺度に妥協するようなものではないということです。

真実であるものに近づくには、ファンタジーやフィクションの力を借りることがよくあります。純文学が描く真実というのは細部にあるわけではなく、むしろ関係や視点の中にあるものです。そして、その背景には必ずと言っていいほど個人的で経験的な何かがあります。

真実は行動を伴います。正当性と道徳との密接な関わりを持っています。真実、善、美は三位一体で、その価値は絶対的なものです。私自身、真実と善と美の渇望は必要不可欠なものであり、過小評価してはならないものだと信じています。

美と芸術の関係は親和的だと考えられていますが、それでは、芸術には善と正当性と関わりがあるのでしょうか?あります。なぜならば、芸術とは私たちの行為と同じように想像を現実化することであるからです。ですから、芸術は道徳とのつながりを断ち切ることはできないのです。時の矢と行為の不可逆性は、人間の良心と人間の想像を背景としています。

最も本質的なことには、根拠など一切必要もありませんし、探すことすらできません。私が架空の現実について話したとしても、何か確かなものが存在しているのです。

良心とは、どんな言葉でもたいてい理解できるように万人に共通した知識です。それは、人間性を完全放棄することによってしか放棄することができない良心という種類の特質のためです。想像もまた、他人のあらゆる認識や選択や行動の結果による現実を理解する能力です。

私は、『ペンローズトライアングル(Tribar)』(1993, 未邦訳)と題したエッセー集を書いています。これは、物理学者ロジャー・ペンローズから学んだ概念です。ペンローズトライアングルとは、不可能な交点を有した対象物です。描くことは可能ですが、実際には存在しえないものです。私は、この概念を、人間らしい現実がお互いに合わないものでありながらも不可避なレベルとしての自由なメタファーとして用いてきました。ペンローズトライアングルという考え方によって、一つとして切り離された世界はないのだという考えを明確にしたいと思ってきました。すなわち、物質と精神、事実と架空、客体と主体は別個ではないということです。一つにそぐわない世界の中から、人間らしい世界は生まれます。物質的な現実や抽象的な現実は同じ魔法の環です。認識と想像は同じプロセスに組み込まれたものなのです。

頭の内部の主観的な世界と頭の外部の客観的な世界は、別物ではありません。フィクションと現実は共生し、切り離すことができないものです。人間の現実、人間自身、それは大概において不可能な接合点や事実や幻想のもとに築かれています。解釈は別のものへと変わり、電気化学は生物学へ、生物学は心理へ、物質は精神へ、そして再び精神は物質へと戻るのです。メタモルフォーゼに終わりはありません。

人工生命や人工知能におけるペンローズトライアングル的な課題は、さらに広範囲な問題領域と関わっています。生命とは何でしょうか?思考とは何でしょうか?本能とは何でしょうか?何が後天的で何が先天的なのでしょうか?ペンローズトライアングルは、生と死を、自然と人工を、後天性と先天性を、夢と覚醒の接点を、死における生を、生における死を、物理における抽象を、抽象における物理を調べるのです。

ペンローズトライアングルのテーマの一つが人間の移ろいやすいアイデンティティです。"自分自身"とは何でしょうか?私たちの中に、いったい何人が存在しているのでしょうか?何が同一で何がそうでないのでしょうか?同一性とは物質の不変性におけるそれとは異なります。なぜならば、私たちが自分だと思っている物質総体は、つねに変わり続けているからです。人間は自分の肉体と同一なのでしょうか?意識は私たちの中枢神経と同一なのでしょうか?

私たちは自分たちの人生において広大無辺なパラドックスを繰り返しています。無形は有形の、非現実は現実の、非合理は合理のうえに成り立っています。最も本質的な問題に対する答えを知らないというだけではありません。むしろ、知ることすら"できない"のです。人間らしいレベルには限界があります。

1968年、パリの建物の壁に「石畳の下には砂浜がある」という言葉が書かれていました。それが、私の児童書『ペリカンの冒険(Ihmisen vaatteissa)』(新樹社, 1988)のモットーとなりました。これ以来、石畳と砂浜という二層の対話を書き続けています。人工的で公的な水面下には、人間らしい存在の礎である別の根源的な生命が未だ触れられずに残っていることは知っています。しかしながら、つい最近になってようやく、石畳と砂浜は同じ物質でできていて、ただ表現形態が違うにすぎない自然なのだと理解し始めました。

それでは、自然でないものは何でしょうか?生物学や生命の限界についての概念は、人工知能や人工生命のおかげで急速に変わり続けています。人間自体がそれらの限界を移動させ、生命の定義に可変性を持たせるようになりました。自然と人工、原型と擬似、後天と先天は、あらゆるメタモルフォーゼを体験する概念なのです。

無機物は様々な形を以って有機物へと変わります。私たちはそのうちのいくつかを扱う術を身につけ始めていますが、残念ながら、それ以上に有機物が無機物へと変わる方法を知っています。

若かりし私に影響を与えた作品は、『アニアラ(Aniara)』を書いたスウェーデンの詩人ハリー・マーティンソンです。彼は、自転車とミシンが役に立つ最後の発明品だと言っています。科学技術が急速に進展すればするほど、汚染してゆく重工業の過失を迅速に直してゆけばゆくほど、自然にとってより好転的だと考えるようになりました。私たちが今現在いるところに立ち止まることはできないのです。

人は選択できなければなりません。そこには最も深い人間性があるからです。私たちは夜明けと日暮れを見分けることもできますが、夜と昼に違いをつけることは不可能ではありません。正誤や善悪も同じことです。

ただ一つだけ私が言えることは、文学は何を私に教えてくれたのか、ということです。私が文学から学んだこと、それは、人の生は取るに足らないものではない、ということです。人が成すことも、人が成す行為も、自分と無関係ではないのです。文学は、無関心や不熱心や無頓着と闘っています。人間という個体は短命で小さな現象ですが、人が与える意義や担う意義というのは小さくはありません。それは、人が選択したり行動したり言葉を発したりするうえでも存在し、あらゆる瑣末な日常の中においても、その意義自体においても存在するものなのです。

訳 末延弘子


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