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特集記事Johan Ludvig Runeberg 今年、2004年はルーネベリ生誕200年目という節目にあたり、ルーネベリに関連したイベントやセミナー、コンサートや絵画展といった催事が国を挙げて行われています(⇒ 詳細)。 このことは、ルーネベリがいかにフィンランド人の心と歴史に残した影響が大きかったかを物語っています。首都ヘルシンキから東に位置するフィンランド湾沿いの港町ポルヴォーがルーネベリの故郷ですが、1882年には既にルーネベリ生家記念館が設立されています。また、2月5日の誕生日には国旗が掲揚されます。 その他に、ルーネベリを称えて、1885年にはフィンランド・スウェーデン文学協会 (Svenska litteratursällskapet i Finland, SLS)が設立されました。 このようにフィンランド人に愛され続けているルーネベリとはいったいどのような人物であったのでしょう。今回はルーネベリについて簡単ですがご紹介します。 ルーネベリの言葉 フィンランドの国民的詩人にヨハン=ルドヴィグ・ルーネベリ(Johan Ludvig Runeberg, 1804-1877)がいます。民衆社会を詩にありのままに描き出すことで、学識者や上流階級にその文化を根づかせ、フィンランドの文化構築に貢献した三大偉人(注釈参照)の一人です。 彼が幼少時代に過ごしたフィンランド内陸部の都市サーリヤルヴィの美しく厳かな自然が、 ルーネベリの詩に眩しく反映されています。内陸地が与えてくれる孤独と不可侵の安らぎほど神々しいものはなく、そこに果つることのない静寂を感じながら詩情溢れる敬虔な気持ちになれる、とルーネベリがサーリヤルヴィ関連記事「サーリヤルヴィの自然と国民性、および、生活様式について」の中で述べています。自然の中で神の恩恵を受けながら、そして、その中で人生の尊さや自然界の大きな力を感じながら、勤勉に正直に働く一人の農夫の姿を描いた詩は、ルーネベリの傑作と言っても良いでしょう。"サーリヤルヴィのパーヴォ"として知られた「田園詩と警句(Idyll och epigram)」の25番は、処女詩集『詩1~3(Dikter I-III)』(1830, 1833, 1843)に収められています。
四季折々に薹立つ自然と人との互恵関係のほかに、フィンランド農民の生活が肯定的に描写されていることは注目に値します。後に、スウェーデンとロシアがフィンランドを賭けて争ったフィンランド戦争(1808~1809)の悲惨さを、フィンランド人の立場から書き記した政治的な叙事詩『旗手ストールの物語1~2(Fänrik Ståls sägner I-II)』(1846~1860)を書いていますが、"サーリヤルヴィのパーヴォ"同様に、窮地に立たされながらも忍耐と勇敢と敬虔な姿勢を維持するフィンランド人の長所を描いています。 ここからフィンランド人の国民像が造り上げられ、その国民像が描かれた風景が祖国フィンランドとして定着していったのです。また彼自身も「国民的詩人」としての地位を確立します。 ここで、『旗手ストールの物語1~2』よりフィンランド国歌として愛されている詩「我が祖国(Vårt land)」をご紹介します。原語はスウェーデン語ですが、パーヴォ・カヤンデル(Paavo Cajander)がフィンランド語に訳した歌詞で歌われることが多いので、 そのフィンランド語の雰囲気が伝わればと思います。作曲者は、フレドリック・パシウス (Frederik Pacius) です。
ルーネベリの作家活動を陰で支えていたのは、夫人のフレドリカ・ルーネベリです。彼女もまた執筆に携わり、家庭と社会における女性の立場を批判した作品を、最初に書いたフィンランド人女流作家としても有名です。1844年には『カタリナ・ボイエ夫人とその娘(Fru Catharina Boije och hennes döttrar)』(1858)の執筆を始め、続く作品群でも、フレドリカは伝統と因習に縛られた女性が別の行動模範を模索する様子を描いています。 注釈) フィンランドの国民性、いわゆる、フィンランド人のアイデンティティの礎を築いた偉人たちのこと。ルーネベリのほかに、国民文学という概念を打ち立てて、フィンランド語と文化の興隆によって愛国心を掻き立てた国民的な哲学者J.V.スネルマン(J.V.Snellman, 1806~1881)、フィンランド人の立場から見た歴史の必要性を説き、歴史小説や童話を介して国民性を探究した国民的な歴史学者ザクリス・トペリ ウス(Zachris Topelius, 1818~1898)がいます。 |
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